女衣巾幗

 
 誰か知ろう真の兵家が大機を逸した胸底のうらみを。
 人はみな、蜀軍の表面の勝ちを、あくまで大勝とよろこんでいたが、独り孔明の胸には、遺憾やるかたないものがつつまれていた。
 加うるに、彼が、ひとまず自軍を渭南の陣にまとめて後、陣中、しきりに不穏の空気がある。
 質してみると、
「魏延が非常に怒っておるようです」とのことだった。
 孔明は魏延を呼んで、
「ご辺がしきりに怒声を放っているということだが、何が不平なのか」と訊ねた。
 魏延は、勃然と、怒気をあらわして云った。
「それは丞相自身のお胸に訊いてみるのが一番でしょう」
「はて。わからぬが」
「では、申しますぞ」
「いわれよ、つつまず」
司馬懿を葫芦谷へ誘きこめとお命じになりましたな」
「命じた」
「幸いにもあの時、大雨が降りそそいできたからよいようなものの、もしあの雨がなかったら、魏延の一命はどうなっておりましょう。それがしも司馬懿父子とともに、焼き殺さるるほかはありません。思うに丞相はそれがしを憎しみ、司馬懿と一緒に焼き殺さんと計られたのでありましょう」
「それを怒ったか」
「あたりまえでしょう」
「怪しからぬことだ」
「魏延が怪しからんのですか」
「いや、馬岱のことを申しておるのだ。かならずさような手違いのないようにと、火をかけるにも、合図をなすにも、すべてを固く馬岱に命じてあったはず。――馬岱を呼べ」
 孔明の怒りのほうがむしろ甚だしい程だったから、魏延もちょっと意外に打たれた。
 馬岱孔明に呼びつけられて、面罵された。その上、衣をはがれ、杖五十の刑をうけて、その職も一軍の大将から、一組の小頭に落されてしまった。
 馬岱は、自陣へもどると、士卒に顔も見せず、痛涙悲憤していた。すると、夜に入って、孔明の側近、樊建という者が、そっと訪ねてきて、
「……実は、丞相のお旨をうけて参った」と、くれぐれもなだめた。
「まったくは、やはり魏延をお除きになるお心だったが、不幸、大雨のために、司馬懿をも取り逃がし、彼を亡きものにする計画も果されなかったのだ。とはいえ今、魏延に叛かれては、蜀軍の崩壊になる。そのため、何の科もない貴公にあのような辱と汚名を着せたが、これも蜀のためと、眼をふさいでくれよとの丞相のお言葉だ。どうかこらえて下さい。その代りに、他日、この功を第一の徳とし、諸人にむかって、必ずこれに百倍する叙勲を以て貴下の辱を雪ぐであろうと約されておられる」
 馬岱はそう聞くと口惜しさも解け、むしろ孔明の苦衷が思いやられた。意地のわるい魏延は、馬岱の地位が平部将に落されたのを見てやろうとするもののように、
馬岱を自分の部下にもらいたい」と、孔明に申し入れた。
 孔明はゆるさなかったが、今はその孔明の足もとをも見すかしている魏延なので、「どうしても」と、強情を張りとおした。それを聞いた馬岱は、
「いや、魏将軍の下につくならば、自分としても恥かしくない」
 と、進んで彼の部下になった。
 もちろん堪忍に堪忍をしてのことである。
 一方、その後の魏軍にも、多少穏やかならぬ空気が内在していた。
 ここにも残念だ、無念だ、という声がしきりにある。
 もちろん、それは度重なる大敗からきた蜀軍への敵愾心であって、内部的な抗争や司馬懿に対する怨嗟ではない。
 しかし、怨嗟はないまでも、不平はあった。満々たる不満が今やみなぎっていた。
 なぜかといえば、以後またも陣々に高札をかかげて、
 ――一兵たりと、既定の陣線から出た者は斬る。また、陣中に激語を弄し、みだりに戦いを敵に挑む者も斬罪に処さん。
 という徹底的な防禦主義、消極作戦の軍法が、彼らの行動を一切制圧していたからである。
 
 
 渭水の氷は解けても、陽春百日、両軍は依然、対陣のままだった。
「都督はつんぼになられたらしい」
 そういわれる程、司馬懿は味方の声にも、四囲の状況にも無感覚な顔をしていた。
 或る時、郭淮が来て、彼に語った。
「それがしの観るのに、どうも孔明はもう一歩出て、さらにほかへ転陣を策しておるように考えられますが」
「君もそう思うか。予もそう観ていたところだ」
 それから仲達は珍しくこんな意見を洩らした。
「――もし孔明が、斜谷祁山の兵を挙って、武功に出で、山に依って東進するようだったら憂うべきだが、西して五丈原へ出れば、憂いはない」
 さすがに司馬懿は慧眼であった。彼がこの言をなしてから日ならずして、孔明の軍は果然移動を開始した。しかも選んだ地は、武功でなくて、五丈原であった。
 武功は今の陝西省武功に属する地方である。司馬懿の観る所――もし孔明がこれへ出てきたら、一挙玉砕か、一挙大勝かの大勇猛心の表現であり、魏軍にとっても容易ならぬ構えが要るものとひそかに怖れていたのである。
 ――が、孔明はその冒険を避けて、なお持久長攻に便な五丈原へ移った。
 五丈原宝鶏県の西南三十五里、ここもなお千里を蜿る渭水の南にある。そして従来数次の陣地に較べると、はるかに遠く出て、中原へ突出している。
 しかも、ここまで来ると、敵国長安の府も潼関も、また都洛陽も、一鞭すでに指呼のうちだ。
(このたびこそ、ここの土と化するか、敵国の中核に突き入るか、むなしく再び漢中には還らぬであろう)
 となしている孔明の気魄は、その地点と軍容から観ても、顕然たるものだった。
 しかもなお、司馬懿が、額を撫でて、
「まずまず、これで味方にとって大幸というべしだ」
 と、喜悦したわけは、持久戦を以て対するならば、彼にも自信があったからである。
 ただ困るのは、大局の見通しを持たぬ麾下が、ややもすると彼を軽んじて、
(卑怯な総帥、臆病な都督)と、あげつらい、陣中の紀綱をみだしがちなことであった。
 ために司馬懿は、わざと魏朝廷に上表して、戦いを請うた。朝廷は再度、辛毘を前線にさしむけ、
「堅守自重、ただそれ、守るに努めよ」と、重ねて全軍を戒めた。
 蜀の姜維は、さっそく孔明に告げた。
「またまた、辛毘が慰撫に下ってきたようです。魏軍の戦意も一頓挫でしょう」
「いや、ご辺の観方はちがう。将が軍にあっては、君命も俟たない場合がある。いやしくも仲達に我を制し得る自信があれば、何で悠々中央と往来して緩命を待っておるものか。――嗤うべし、実は彼自身、戦意もないのに、強いてその武威を衆に示そうための擬態に過ぎない」
 また、或る日、魏の陣営で、「万歳」の歓呼がしきりにあがっていると報ずる者があった。孔明が、何故の敵の歓呼かと老練な諜者に調べさせると、
「呉が魏廷に降伏したという報が、いま伝わったらしいのです」
 と老諜者は憂いをたたえて云ってきた。
 すると孔明は、笑いながら、
「いま呉が降伏するなどということはどこから観てもあり得ない。汝は年六十にもなるのに、まだそんなくだらぬことを信ずるほどの眼しか持たないか」と愍れむ如く叱った。
 
 
 孔明五丈原へ陣を移してからも、種々に心をくだいて、敵を誘導して見たが、魏軍は完くうごきを見せない。
 敵国の地深くへ進み出ながら、彼がなお自ら軍を引っ提げて戦わずに、ひたすら魏軍の妄動を誘う消極戦法を固持している理由は、実にその兵力装備の差にあった。後方から補充をなすに地の利を得ている魏の陣営は、うごかざる間にも、驚くべき兵力を逐次加え、今では、孔明の観るところ、蜀全軍の八倍に達する大兵を結集しているものと思われていたのである。
 その量と実力に当る寡兵蜀陣としては、――誘ってこれを近きに撃つ。
 その一手しか断じてほかに策はなかったのだ。
 しかも、彼は孔明のその一活路をすら観破している。さすがの孔明も完く無反応な辛抱づよい敵にたいしては計の施しようもなかった。さきに祁山渭南の地方にわたって、大いに撫民に努め、屯田自給の長計をたてて、兵糧にはさして困らないほどにはなっているものの、かくてまた、年を越え、また年を越えて、連年敵地に送っているまには、魏の防塁と装備は強化するばかりとなろう。
「――これを持って、魏陣へ使いし、確と、仲達に渡してこい」
 一日、孔明は、一使を選んで、自筆の書簡と、美しき牛皮の匣とを託した。
 使者は、輿に乗って、魏陣へ臨んだ。輿に乗って通る者は射ず撃たずということは戦陣の作法になっている。
「なんの使者だろう?」
 魏の将士はあやしみつつ陣門へ通し、やがて、使者の乞うまま司馬仲達に取り次いだ。司馬懿はまず匣を開いてみた。――と、匣の中からは、艶やかな巾幗と縞衣が出てきた。
「……何じゃ、これは?」
 仲達の唇をつつんでいる疎々たる白髯はふるえていた。あきらかに彼は赫怒していた。――がなお、それを手にしたままじっと見ていた。
 巾幗というのは、まだ笄を簪す妙齢にもならない少女が髪を飾る布であって、蜀の人はこれを曇籠蓋ともいう。
 また縞衣は女服である。――との謎を解くならば、挑めども応ぜず、ただ塁壁を堅くして、少しも出て来ない仲達は、あたかも羞恥を深く蔵して、ひたすら外気を恐れ、家の内でばかり嬌を誇っている婦人のごときものであると揶揄しているものとしか考えられない。
「…………」
 彼は次に書簡をひらいていた。
 彼が心のうちで解いた謎はやはりあたっている。孔明の文辞は、老仲達の灰の如き感情をも烈火となすに充分であった。いわく、
 ――史上稀なる大軍をかかえながら、足下の態度は、腐った婦人のように女々しいのはどうしたものか。武門の名を惜しみ、身も男子たるを知るならば、出でていさぎよく決戦せずや。
「ははははは。おもしろい」
 やがて仲達の唇が洩らしたものは、内心の憤怒とは正反対な笑い声だった。
 蜀の使者はほっとして、その顔を仰いだ。
「大儀大儀。せっかくのお贈り物。これは納めておこう」
 仲達はそういって、なお使者をねぎらい、酒を饗して、座間に訪ねた。
孔明はよく眠るかの」
 いやしくも自分の仕える孔明のうわさとなると、軍使は杯を下におき、一言の答えにも身を正していう。
「はい。わが諸葛公には、夙に起き夜は夜半に寝ね、軍中のお務めに倦むご容子も見えません」
「賞罰は」
「至っておきびしゅうございます。罰二十以上、みな自ら裁決なすっておられます」
「朝暮の事は」
「おはごく少なく、一日数升(升は近代の合)を召上がるに過ぎません」
「ほ。……それでよくあの身神がつづくものだの」
 そこでは、さも感服したような態だったが、使者が帰ると、左右の者にいった。
孔明の命は久しくあるまい。あの劇務と心労に煩わされながら、微量な物しか摂っていないところを見ると、或いはもういくぶん弱っているのかも知れない」
 
 
 魏の陣から帰ってきた使者に向って、孔明は敵営の状と、司馬懿の反応を質していた。
仲達は怒ったか」
「笑っていました。そして折角のご好意だからとて、快く贈り物を納めました」
「彼は汝に何を問うたか」
「丞相の起居をしきりにたずねておりました」
「そして」
「お事の量を聞くと、彼は左右にむかって、よく身神が続くものだと託っておりました」
 後、孔明は大いに嘆じた。
「我をよく知ること、敵の仲達にまさる者はいない。彼はわが命数まで量っている」
 ときに楊喬という主簿の一員が進み出て、孔明に意見を呈した。
「わたくしは職務上、つねに丞相の簿書(日誌)を見るたびに考えさせられております。およそ人間の精力にも限度があり、家を治めるにも上下の勤めと分があります。――もしわたくしの僭越をお咎めなくお聞きいただけるのでしたら、愚見を申しあげてみたいと思うのでありますが」
「わが為にいうてくれる善言ならば、孔明も童子のような心になって聞くであろう」
「ありがとうございます。――たとえば、一家の営みを見ましても奴婢がおれば、奴は出でて田を耕し、婢は内にあって粟を炊ぐ。――鶏は晨を告げ、犬は盗人の番をし、牛は重きを負い、馬は遠きに行く。みな、その職と分でありましょう。――また家の主は、それらを督して家業を見、租税を怠らず、子弟を教育し、妻はこれを内助して、家の清掃、一家の和、かりそめにも家に瑕瑾なからしめ、良人に後顧のないように致しております。――かくてこそ一家は円滑に、その営みはよく治まって参りますが、仮に、その家の主が、奴ともなり婢ともなり、独りですべてをなそうとしたらどうなりましょう。体は疲れ気根は衰え、やがて家亡ぶの因となります」
「…………」
「主は従容として、時には枕を高うし、心を広くもち、よく身を養い、内外を見ておればよいのであります。決してそれは、奴婢鶏犬に及ばないからではなく、主の分を破り家の法に背くからです。――坐シテ道ヲ論ズ之ヲ三公ト言イ、作ッテ之ヲ行ウヲ士大夫ト謂ウ――と古人が申したのもその理ではございますまいか」
「…………」孔明は瞑目して聞いていた。
「然るに、丞相のご日常をうかがっておりますと、細やかな指示にも、余人に命じておけばよいことも、大小となく自ら遊ばして、終日汗をたたえられ、真に涼やかに身神をお休めになる閑もないようにお見受け致されます。――かくてはいかなるご根気も倦み疲れ、到底、神気のつづくいわれはございません。ましてやようやく夏に入って、日々この炎暑では何でお体が堪りましょう。どうかもう少し暢やかに稀れにはおくつろぎ下さるこそ、われわれ麾下の者も、かえって歓ばしくこそ思え、毛頭、丞相の懈怠なりなどとは思いも寄りませぬ」
「……よくいうてくれた」
 孔明も涙をながし、部下の温情を謝して、こう答えた。
「自分もそれに気づかないわけではないが、ただ先帝の重恩を思い、蜀中にある孤君の御行く末を考えると、眠りについても寝ていられない心地がしてまいる。かつは、人間にも自ら定まれる天寿というものがあるので、なにとぞ我が一命のあるうちにと、つい悠久な時をわすれて人命の短きにあせるために、人手よりはわが手で務め、先にと思うことも、今のうちにと急ぐようになる。――けれどお前達に心配させてはなるまいから、これからは孔明も折々には閑を愛し身の養生にも努めることにしよう」
 諸人もそれを聞いてみな粛然と暗涙をのんだ。
 けれど、そのときすでに、身に病の発ってきた予感は、孔明自身が誰よりもよく覚っていたにちがいない。間もなく彼の容態は常ならぬもののように見えた。
五丈原の巻 第29章
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