河南
河南(かなん)とは
歴史的背景
三国志での関わり
三国志の物語では河南は群雄の争奪地としてしばしば登場する。特に曹操が拠点とした許昌(許都)は河南に属し、魏の政治的中枢となった。劉備や袁紹、董卓なども河南を巡って攻防を繰り広げ、中原支配の象徴的地域とされた。
関連する人物
劉備(河南に進出を図ったことがある)
六。 盧植がいうには、 。 ――そもそもこの地方は、嶮岨が多くて、守る賊軍に利があり、一気に破ろうとすれば、多大に味方を損じるので、心ならずも、こうして長期戦を張って、長陣をしている理であるが、折入って、貴下に頼みたいというのは、賊の総大将張角の弟で張宝・張梁のふたりは目下、潁川(河南省・許昌)のほうで暴威をふるっている。 その方面へは、やはり洛陽の朝命をうけて、皇甫嵩・朱雋の二将軍が、官軍を率いて討伐に向っている。 ここでも勝敗決せず、官軍は苦戦しているが、わが広宗の地よりも、戦うに益が...
一。 潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。「さしも旺だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自壊しはじめたようですな」 。 関羽がいうと、 。
けれどもう冬は来るし、部下が不愍なので、お訴えに出てきたわけです」 。「それは初めて知りました。皇甫嵩将軍は、功によって、益州の太守に封ぜられ、朱雋は都へ凱旋するとただちに車騎将軍となり河南の尹に封ぜられている。あの孫堅さえ内縁あって、別部司馬に叙せられたほどだ。――いかに功がないといっても、貴君の功は孫堅以下ではない。
見ればその人は、貌相魁偉胸ひろく双肩威風をたたえ、武芸抜群の勇将とは見られた。 これなん、漢の司徒袁安が孫、袁逢が子、袁紹であった。袁紹字は本初といい、汝南汝陽(河南省・淮河上流の北岸)の名門で門下に多数の吏事武将を輩出し、彼も現在は漢室の司隷校尉の職にあった。 袁紹は、昂然とのべた。「願わくば自分に精兵五千を授け給え。
と、後のことばを胸にのんで退がってしまった。そしてこの両者をはじめ、心ある朝臣たちも、こんなことを伝え聞いて、そろそろ何進の人間に見限りをつけだして離れてしまった。「董卓どのの兵馬は、もう澠池(河南省・洛陽西方)まで来ているそうです」 。 何進は、部下から聞いて、 。「なぜすぐにやって来んのか。
帝と、帝の弟の陳留王とは、河原の草の裡へ抱き合って、しばし近づく兵馬に耳をすましておられた。二。 やがて河を越えて驟雨のように馳け去って行ったのは、河南の中部掾史、閔貢の兵馬であったが、なにも気づかず、またたくまに闇に消え去ってしまった。「…………」 。 しゅく、しゅく……と新帝は草むらの中で泣き声をもらした。
年二十で、初めて洛陽の北都尉に任じられてから、数年のうちにその才幹は認められ、朝廷の少壮武官に列して、禁中紛乱、時局多事の中を、よく失脚もせず、いよいよその地歩を占めて、新旧勢力の大官中に伍し、いつのまにか若年ながら錚々たる朝臣の一員となっているところ、早くも凡物でない圭角は現れていた。 竹裏館の秘密会で、王允もいったとおり、彼の家柄は、元来名門であって、高祖覇業を立てて以来の――漢の丞相曹参が末孫だといわれている。 生れは沛国譙郡(安徽省・毫県)の産であるが、その父曹嵩は、宮内官たりし職...