五関突破
一
胡華の家を立ってから、破蓋の簾車は、日々、秋風の旅をつづけていた。
やがて洛陽へかかる途中に、一つの関所がある。
「ここは三州第一の要害。まず、事なく通りたいものだが」
関羽は、車をとどめて、ただ一騎、先に馳けだして呶鳴った。
「これは河北へ下る旅人でござる。ねがわくは、関門の通過をゆるされい」
すると、孔秀自身、剣を扼して立ちあらわれ、
「しかり。それがしは、関羽でござる」
「二夫人の車を擁して、いずれへ行かれるか」
「さらば、曹丞相の告文をお持ちか」
「事火急に出で、告文はつい持ち忘れてござるが」
「ただの旅人ならば、関所の割符を要し、公の通行には告文なくば関門を通さぬことぐらいは、将軍もご承知であろう」
「帰る日がくればかならず帰るべしとは、かねて丞相とそれがしとのあいだに交わしてある約束です。なんぞ、掟によろうや」
「一日も心のいそぐ旅。いたずらに使いの往還を待ってはおられん」
「たとい、なんと仰せあろうと、丞相の御命に接せぬうちは、ここを通すこと相ならん。しかも今、辺境すべて、戦乱の時、なんで国法をゆるがせにできようか」
「曹操の国法は、曹操の領民と、敵人に掟されたもの。それがしは、丞相の客にして、領下の臣でもない。敵人でもない。――強って、通さぬとあれば、身をもって、踏みやぶるしかないが、それは却って足下の災いとなろう。快く通したまえ」
「ならんというに、しつこいやつだ。もっとも、其方の連れている車のものや、扈従のものすべてを、人質としてここに留めておくならば、汝一人だけ、通ることをゆるしてやろう」
「左様なことは、此方としてゆるされん」
「しからば、立ち帰れ」
「何としても?」
「くどい!」
言い放して、孔秀は、関門を閉じろと、左右の兵に下知した。
関羽は、憤然と眉をあげて、
「盲夫っ、これが見えぬか」
と、青龍刀をのばして、彼の胸板へ擬した。
孔秀は、その柄を握った。あまりにも相手を知らず、おのれを知らないものだった。
「猪口才な」と、罵りながら、部下の関兵へ大呼して、狼藉者を召捕れとわめいた。
「これまで」と、関羽は青龍刀を引いた。
あとの番卒などは、ものの数ではない。
関羽は、縦横になぎちらして、そのまま二夫人の車を通し、さて、大音にいって去った。
その日、車の蓋には、ばらばらと白い霰が降った。――次の日、また次の日と、車のわだちは一路、官道を急ぎぬいて行く。
二
市外の函門は、ゆうべから物々しく固められていた。
常備の番兵に、屈強な兵が、千騎も増されて付近の高地や低地にも、伏勢がひそんでいた。
――とも知らず、やがて関羽は尋常に、その前に立って呼ばわった。
「それがしは漢の寿亭侯関羽である。北地へ参るもの、門をひらいて通されい」
聞くやいなや、
「すわ、来たぞ」と、鉄扉と鉄甲はひしめいた。
「告文を見せよ」とのっけから挑戦的にいった。
関羽が、持たないというと、告文がなければ、私に都を逃げてきたものにちがいない。立ち去らねば搦め捕るのみと――豪語した。
「汝も首を惜しまざる人間か」と、いった。
そのことばも終らぬまに、四面に銅鑼が鳴った。山地低地には金鼓がとどろいた。
「さてはすでに、計をもうけて、われを陥さんと待っていたか」
関羽はいったん駒を退いた。
逃げると見たか、
「生擒れ。やるなっ」
とばかり、諸兵はやにわに追いかけた。
関羽はふり向いた。
碧血紅漿、かれの一颯一刃に、あたりはたちまち彩られた。
「孟坦が討たれた!」
ひるみ立った兵は、口々にいいながら、函門のなかへ逃げこんだ。
矢は関羽の左の臂にあたった。
「いでや、このひまに!」
市城を突破して、ふたたび山野へ出るまでは、夜もやすまずに車を護って急いだ。簾中の二夫人も、この一昼夜は繭の中の蛾のように、抱きあったまま、恐怖の目をふさぎ通していた。
それから数日、昼は深林や、沢のかげに眠って、夜となると、車をいそがせた。
沂水関へかかったのも、宵の頃であった。
ここには、もと黄巾の賊将で、のちに曹操へ降参した弁喜というものが固めていた。
山には、漢の明帝が建立した鎮国寺という古刹がある。弁喜は、部下の大勢をここに集めて、
「――関羽、来らば」と、何事か謀議した。
三
夜あらしの声は、一山の松に更けて、星は青く冴えていた。
折ふし、いんいんたる鐘の音が、鎮国寺の内から鳴りだした。
「来たっ」
「来ましたぞっ」
山門のほうから飛んできた二人の山兵が廻廊の下から大声で告げた。
謀議の堂からどやどやと人影があふれ出てきた。大将弁喜以下十人ばかりの猛者や策士が赤い燈火の光をうしろに、
「静かにしろ」と、たしなめながら欄に立ちならんで山門の空を見つめた。
「来たとは、関羽と二夫人の車の一行だろう」
「そうです」
「山麓の関門では、何もとがめずに通したのだな」
「そうしろという大将のご命令でしたから、その通りにいたしました」
「関羽に充分油断を与えるためだ。洛陽でも東嶺関でも、彼を函門で拒もうとしたゆえ、かえって多くの殺傷をこうむっておる。ここでは計をもって、かならず彼奴を生捕ってくれねばならん。……そうだ、迎えに出よう。坊主どもにも、一同出迎えに出ろといえ」
「いま、鐘がなりましたから、もうみな出揃っているはずです」
「じゃあ、各〻」
弁喜は左右の者に眼くばせをして、階を降りた。
この夜、関羽は、麓の関所も難なく通されたのみか、この鎮国寺の山門に着いて、宿を借ろうと訪れたところ、たちまち一山の鐘がなり渡るとともに、僧衆こぞって出迎えに立つという歓待ぶりなので、意外な思いに打たれていた。
長老の普浄和尚は車の下にぬかずいて、
「長途の御旅、さだめし、おつかれにおわそう。山寺のことゆえ、雨露のおしのぎをつかまつるのみですが、お心やすくお憩いを」と、さっそく、簾中の二夫人へ、茶を献じた。
「将軍。あなたは郷里の蒲東を出てから、幾歳になりますか」と、たずねた。
「はや、二十年にちかい」
関羽が答えると、また、
「では、わたくしをお忘れでしょうな。わたくしも将軍と同郷の蒲東で、あなたの故郷の家と、わたくしの生家とは、河ひとつ隔てているきりですが……」
「ほ。長老も蒲東のお生れか」
そこへ、ずかずかと、弁喜が佩剣を鳴らして歩いてきた。そして普浄和尚へ、
「まだ堂中へ、お迎えもせぬうちから、何を親しげに話しておるか。賓客にたいして失礼であろう」
と、疑わしげに、眼をひからしながら、関羽を導いて、講堂へ招じた。
果たして。
弁喜の巧言は、いかにも関羽の人格に服し、酒宴の燭は歓待をつくしているかのようであったが、廻廊の外や祭壇の陰などには、身に迫る殺気が感じられた。
「ああ。こんな愉快な夜はない。将軍の忠節と風貌をお慕いすることや実に久しいものでしたよ。どうか、お杯をください」
弁喜の眼の底にも、爛々たる兇悪の気がみちている。この佞獣め、と関羽は心中すこしの油断もせずにいたが、
「一杯の酒では飲み足るまい。汝にはこれを与えよう」
と、壁に立てておいた青龍刀をとるよりはやく、どすっと、弁喜を真二つに斬ってしまった。
満座の燭は、血けむりに暗くなった。関羽は、扉を蹴って、廻廊へおどり立ち、
と、大鐘の唸るが如き声でどなった。
四
震いおそれた敵は十方へ逃げ散ってしまったらしい。ふたたび静かな松籟が返ってきた。
関羽は、二夫人の車を護って、夜の明けぬうち鎮国寺を立った。
「わしも、もはやこの寺に、衣鉢をとどめていることはできません。近く他国へ雲遊しましょう」
と、いった。
関羽は、気の毒そうに、
「此方のために、長老もついに寺を捨て去るような仕儀になった。他日、ふたたび会う日には、かならず恩におこたえ申すであろう」
つぶやくと、呵々と笑って、普浄はいった。
「岫に停まるも雲、岫を出ずるも雲、会するも雲、別るるも雲、何をか一定を期せん。――おさらば、おさらば」
夕刻、使いがあって、
「いささか、小宴を設けて、将軍の旅愁をおなぐさめいたしたいと、主人王植が申されますが」
と、迎えがきたが、関羽は、二夫人のお側を一刻も離れるわけにはゆかないと、断って、士卒とともに、馬に秣糧を飼っていた。
そして寝しずまる頃を待ち、客舎のまわりに投げ炬火をたくさんに用意し、乾いた柴に焔硝を抱きあわせて、柵門の内外へはこびあつめた。
「――時分は良し」と、あとは合図をあげるばかりに備えていたが、まだ客舎の一房に燈火の影が見えるので、何となく気にかかっていた。
「いつまでも寝ない奴だな。何をしておるのか?」
と、胡班は、忍びやかに近づいて房中をうかがった。
すると、紅蝋燭の如く赤い面に漆黒の髯をふさふさとたくわえている一高士が、机案に肱をついて書を読んでいた。
「あっ? ……この人が関羽であろう。さてさてうわさに違わず、これは世のつねの将軍ではない。天上の武神でも見るような」
思わず、それへ膝を落すと、関羽はふと面を向けて、
「何者だ」と、しずかに咎めた。
逃げる気にも隠す気にもなれなかった。彼は敬礼して、
「王太守の従事、胡班と申すものです」と、云ってしまった。
「なに、従事胡班とな?」
「ああこれは、父の胡華よりわたくしへの書状」
驚いて、読み入っていたが、やがて大きく嘆息して、
「もしこよい、父の書面を見なかったら、わたくしは天下の忠臣を殺したかもしれません」
と王植の謀計を打ち明けて、一刻もはやくここを落ち給えとうながした。
関羽も一驚して、取るものも取りあえず、二夫人を車に乗せて、客舎の裏門から脱出した。
あわただしい轍の音を聞き伝え、果たして八方から炬火が飛んできた。客舎をつつんでいた枯れ柴や焔硝はいちどに爆発し、炎々、道を赤く照した。
五
太守劉延は、弓槍の隊伍をつらねて、彼を街上に迎えて、試問した。
「この先に大河がある。将軍は、何によって渡るおつもりか」
「もちろん船で」
「願わくは、足下の船をからん。それがしらのために、便船を発せられい」
「船は多くあるが、将軍に貸す船はない。何となれば、曹丞相からさようなお沙汰はとどいていないからである」
「無用の人かな」
河港の入口に、猛兵を左右にしたがえ、駒を立てていた豹眉犬牙の荒武者がある。
「止れっ。――来れるものは何奴であるか」
「秦琪は、足下か」
「そうだ」
「われは漢の寿亭侯関羽」
「どこへ参る」
「河北へ」
「告文を見せろ」
「なし」
「丞相の告文がなくば、通過はゆるさん」
「翼があるなら飛んで渡れ。さような大言を吐くからには、なおもって、一歩もここを通すことはまかりならぬ」
「知らずや、秦琪!」
「なんだと」
「だまれ。おのれ手なみを見てから吐ざけ」
「ああ、小人、救うべからず!」
偃月の青龍刀は、またしても風を呼び、血を降らせた。
埠頭の柵を破壊して、関羽は、繋船門を占領してしまった。刃向かう雑兵群を追いちらし追いちらして一艘の美船を奪い、二夫人の車をそれへ移すやいなや、纜をとき、帆を張って、満々たる水へただよい出した。
ついに、河南の岸は離れた。
北の岸は、すでに河北。
関羽は、ほっと、大河と大空に息をついた。
顧みれば――都を出てから、五ヵ所の関門を突破し、六人の守将を斬っている。
許都を発してからは、踏破してきたその地は。
滑州(黄河渡口)
「よくも、ここまで」
われながら関羽はそう思った。
しかもまだ行くての千山万水がいかなる艱苦を待つか、歓びの日を設けているか? ――それはなお未知数といわなければならない。
けれど、共に立った二夫人は、もうここまで来ればと――はやくも劉玄徳との対面を心に描いて、遠心的な眸をうっとりと水に放っていた。