山谷笑う
一
八十余万と称えていた曹操の軍勢は、この一敗戦で、一夜に、三分の一以下になったという。
溺死した者、焼け死んだ者、矢にあたって斃れた者、また陸上でも、馬に踏まれ、槍に追われ、何しろ、山をなすばかりな死傷をおいて三江の要塞から潰乱した。
けれど、犠牲者は当然呉のほうにも多かった。
「救えっ。救うてくれっ」と、まだ乱戦中、波間に声がするので、呉将の韓当が、熊手で引上げてみると、こよいの大殊勲者、黄蓋だった。
肩に矢をうけている。
韓当は、鏃を掘り出し、旗を裂いて瘡口をつつみ、早速、後方に送った。
誰か、その中の一人は、蔡仲を斬りころし、その首を槍のさきに刺して駈けあるいていた。
こんな有様なので、魏軍はその一隊として、戦いらしい戦いを示さなかった。逃げる兵の上を踏みつけて逃げまろんだ。敵に追いつかれて樹の上まで逃げあがっている兵もある。それが見るみるうちに、バリバリと、樹林もろともに焼き払われてしまう。
「丞相、丞相。戦袍のお袖に火がついていますぞ」
駈けても駈けても焔の林だ。山も焼け水も煮え立っている。それに絶えず灰が雨の如く降ってくるので、悍馬はなおさら暴れ狂う。
「おうーいっ。張遼ではないか。おおういッ」
後から追いついて来た十騎ばかりの将士がある。味方の毛玠だった。さきに深傷を負った文聘がその中に扶けられて来る。
「ここはどの辺だ」
息をあえぎながら曹操は振向く。
張遼がそれに答えた。
「この辺もまだ烏林です」
「まだ烏林か」
「林のつづく限り平地です。さしずめ敵勢も迅速に追いついて来ましょう。休んでいる間はありません」
総勢わずか二十数騎、曹操はかえりみて、暗澹とならずにいられなかった。
たのむは、馬の健脚だった。さらに鞭打って、後も見ずに飛ぶ。
すると、林道の一方から、火光の中に旗を打振り、
「曹賊っ。逃げるなかれ」
と呼ばわる者がある。呉の呂蒙が兵とこそ見えた。
「あとは、それがしが殿軍します。ただ急いで落ち給え」と、張遼が踏みとどまる。
しかしまた、一里も行くと、一簇の軍勢が奔突して、
「呉の凌統これにあり。曹賊、馬を下りて降参せよ」と、いう声がした。
曹操は、胆を冷やして、横ざまに林の中へ駈けこんだ。
ところが、そこにも、一手の兵馬が潜んでいたので、彼は、しまったと叫びながら、あわてて馬をかえそうとすると、
「おうっ、徐晃か」
曹操は、大息をついて、ほっとした顔をしたが、
「張遼が苦戦であろう。扶けて来い」と、いった。
二
すると、一彪の軍馬が、山に拠って控えていた。
ふたりは、早速、曹操に会いにきた。そしていうには、
「実は、われわれ両名にて、北国の兵千余を集め、烏林のご陣へお手伝いに参らんものと、これまで来たところ、昨夜来の猛風と満天の火光に、行軍を止め、これに差し控えて万一に備えていたわけです」
曹操は大いに力を得て、馬延、張顗に道を開かせ、そのうち五百騎を後陣として、ここからは少し安らかな思いで逃げ落ちた。
そして十里ほど行くと、味方の倍もある一軍が、真っ黒に立ちふさがり、ひとりの大将が、駒を乗り出して何かいっている。――馬延は、自分に較べて、それも多分味方ではないかと思い、
「何者か」と、先へ近づいて訊いた。
すると、彼方の者は、大音をあげて、
「われこそは呉に彼ありともいわれた甘寧である。こころよく我が刃をうけよ」
云いも終らぬうち、馬躍らせて近寄りざま、馬延を一刀のもとに斬り落した。
後ろにいた張顗は、驚いて、
「さては呉の大将か」と、槍をひねって、突きかかったが、それも甘寧の敵ではなかった。
幸いに、彼を探している残軍に出会ったので、
「あとから来る敵を防げ」と、馬も止めずに命じながら、鞭も折れよと、駈けつづけた。
夜はすでに、五更の頃おいであった。振りかえると、赤壁の火光もようやく遠く薄れている。曹操はややほっとした面持で、駈け遅れて来る部下を待ちながら、
「ここは、何処か」と、左右へたずねた。
もと荊州の士だった一将が答えていう。
「――烏林の西。宜都の北のほうです」
「宜都の北とな。ああそんな方角へ来ていたか」
「あはははは。あははは」
――突然、曹操が声を放って笑い出したので、前後の大将たちは奇異な顔を見合わせて彼にたずねた。
「丞相。何をお笑いになるのですか」――と。
曹操は、答えていう。
「いや、べつだんな事でもない。今このあたりの地相を見て、ひとえに周瑜の浅才や、孔明の未熟が分ったから、ついおかしくなったのだ。もしこの曹操が周瑜か孔明だったら、まずこの地形に伏兵をおいて、落ち行く敵に殲滅を加えるところだ。――思うに赤壁の一戦は、彼らの怪我勝ちというもので、こんな地の利を遊ばせておくようでは、まだまだ周瑜も孔明も成っておらぬ」
敗軍の将は兵を語らずというが――曹操は馬上から四林四山を指さして、なお、幕将連に兵法の実際講義を一席弁じていた。
ところが、その講義の終るか終らないうちに、たちまち左右の森林から一隊の軍馬が突出して来た。そして前後の道を囲むかと見えるうちに、
という声が聞えたので、曹操は驚きのあまり、危うく馬から転げ落ちそうになった。
三
「おう! 降ってきた」
無情な天ではある。雨までが、敗軍の将士を苛んで降りかかる。それも、車軸を流すばかりな大雨だった。
雨は、甲や具足をとおして、肌にしみ入る。時しも十一月の寒さではあるし、道はぬかり、夜はまだ明けず、曹操を始め幕下の者の疲労困憊は、その極に達した。
「――部落があるぞ」
ようやく、夜が白みかけた頃、一同は貧しげな山村にたどりついていた。
浅ましや、丞相曹操からして、ここへ来るとすぐいった。
「火はないか。何ぞ、食物はないか」
彼の部下は、そこらの農家へ争って入りこんで行った。おそらく掠奪を始めたのだろう。やがて漬物甕や、飯櫃や、鶏や、干菜や漿塩壺など思い思いに抱えてきた。
けれど、火を焚いて、それらの食物を胃ぶくろへ入れる間もなかった。なぜなら部落のうしろの山から火の手があがり、
「すわ。敵だっ」と、またまた、逃げるに急となったからである。
焼け跡から焼けのこった宝玉を拾うように、曹操は歓ぶのだった。やがて共々、馬を揃えて、道をいそぐ。――陽は高くなって、夜来の大雨もはれ、皮肉にも東南風すらだんだんに凪いでいた。ふと、駒をとめて、曹操は、眼の前にかかった二つの岐れ道を、後ろへたずねた。
「さればです」と、幕将のひとりがいう。
「いずれへ出たほうが、許都へ向うに近いのか」
「南夷陵です。途中、葫蘆谷をこえてゆくと、非常に距離がみじかくなります」
「さらば、南夷陵へ」と、すぐその道をとって急いだ。
午すぎた頃、すでに同勢は葫蘆谷へかかった。肉体を酷使していた。馬も兵も飢えつかれて如何とも動けなくなってきた。――曹操自身も心身混沌たるものを覚える。
「やすめっ。――休もう」
下知をくだすや否、彼は馬を降りた。そして、先に部落から掠奪して来た食糧を一ヵ所に集め、柴を積んで焚火とし、士卒たちは、盔の鉢や銅鑼を鍋に利用して穀類を炊いだり鶏を焼いたりし始めた。
「ああ、やっとこれで、すこし人心地がついた」と、将士はゆうべからの濡れ鼠な肌着や戦袍を火に乾している。曹操もまた暖を取って後、林の下へ行って坐っていた。
憮然たる面持で、彼は、天を凝視していたが、何を感じたか、
「ははは。あははは」
と、独りで笑いだした。
諸将は、何か、ぎょッとしたように、彼へ向って云った。
曹操は、なお、笑っていう。
そのことばが、まだ終らぬうちに、たちまち、金鼓喊声、四山にこだまし、あたりの樹林みな兵馬と化したかの如く、四方八面に敵のすがたが見えてきた。
中に、声あって、
あなやと思うまに、丈八の蛇矛、黒鹿毛の逸足、燦々たる甲盔が、流星のごとく此方へ飛んできた。
四
「張飛だっ」
名を聞いただけでも、諸将は胆を冷やした。士卒たちは皆、甲や下着を火に乾していたところなので、周章狼狽、赤裸のままで散乱するもある。
許褚のごときも、
「丞相の危機。近づけては」と、あわてて、鞍もない馬へ飛び乗り、猛然、駈け寄ってきた張飛の前に立って戦い、ややしばし、喰い止めていた。
その間に、
とはいえ、張飛のふりまわす一丈八尺の蛇矛には、当るべくもない。その敵を討つというよりは、彼の猛烈な突進を、少しの間でも防ぎ支えているのがやっとであった。
曹操は、耳をふさぎ、眼をつぶって、数里の間は生ける心地もなくただ逃げ走った。やがてちりぢりに味方の将士も彼のあとを慕って追いついて来たが、どれを見ても、傷を負っていない者はない有様だった。
「また岐れ路へ出た。この二条の道は、どっちへ向ったがよいか」
曹操の質問に、
と、地理にくわしい者が答えた。
曹操は聞くと、うなずいて、山の上へ部下を走らせた。部下は立ち帰ってきてから復命した。
「山路のほうをうかがってみますと、彼方の峠や谷間の諸所から、ほのかに、人煙がたち昇っております。必定、敵の伏兵がおるに違いございません」
「そうか」と、曹操は、眉根をきっと落着けて、
諸大将は驚きかつ怪しんで、
曹操は、苦笑を示して、
「敵の火の手をご覧ありながら、しかもその嶮へ向われようとは、あまりな物好きではありませんか」
「そうでない。汝らも覚えておけ。兵書にいう。――虚ナル則ハ実トシ、実ナル則ハ虚トス、と。孔明は至って計の深いものであるから、思うに、峠や谷間へ、少しの兵をおいて煙をあげ、わざと物々しげな兵気を見せかけ、この曹操の選ぶ道を、大路の条へ誘いこみ、かえって、そこに伏兵をおいて我を討止めんとするものに相違ない。――見よ、あの煙の下には、真の殺気はみなぎっていない。かれが詐謀たること明瞭だ。それを避けて、人気なしなどと考えて大路を歩まば、たちまち、以前にもまさる四面の敵につつまれ、一人も生きるを得ぬことは必定である。あやうい哉あやうい哉、いざ疾く、山道へかかれ」と、いって駒をすすめたので、諸人みな、
「さすがは丞相のご深慮」と、感服しないものはなかった。
こうしている間にも、後から後から、残兵は追いつき、今は敗軍の主従一団となったので、
と、あえぎあえぎ華容山麓から峰越えの道へ入った。
けれど気はいくらあせっても、馬は疲れぬいているし、負傷者も捨てては行けず、一里登っては休み、二里登っては憩い、十里の山道をあえぐうち、もう先陣の歩みは、まったく遅々として停ってしまった。――折から山中の雲気は霏々として白い雪をさえまじえて来た。