空腹・満腹
一
――一時、この寿春を捨て、本城をほかへ遷されては。
と、いう楊大将の意見は、たとえ暫定的なものにせよ、ひどく悲観的であるが、袁術皇帝をはじめ、諸大将、誰あって、
「それは余りにも、消極策すぎはしないか」と、反対する者もなかった。
それには理由がある。
誰も口にはしないが、実をいえば、内部的に大きな弱点があることを、誰も知悉しているからだった。
というのは、この年、寿春地方は、水害がつづいて、五穀熟せず、病人病馬は続出し、冬期の兵糧もはなはだ心もとなかった。
ところへ、この兵革をうけたので、それも士気の振わない一因だった。――で、楊大将の考えとしては、皇帝の眷族と、本軍の大部分を水害地区の外にうつし、ひとつに兵糧持久の策とし、二つには目前の敵の鋭気を避け、遠征軍には苦手な冬季を越える覚悟で、時々奇襲戦術をもって酬い、おもむろに事態の変化を待とうというのである。
「なるほど、これが万全かもしれない」
長い沈黙はつづいたが、やがて各〻うなずいた。
袁術皇帝も、
「その儀、しかるべし」
と、許容あって、立ちどころに大々的脱出の手配にかかった。
李豊、楽就、陳紀、梁剛の四大将は、あとに残って、寿春を守ることになり、これに属する兵はおよそ十万。
また、袁術とその眷族に従って、城を出てゆく本軍側には、将士二十四万人が附随し、府庫宮倉の金銀珍宝はいうまでもなく、軍需の貨物や文書官冊などもみな、昼夜、車につんで陸続と搬出し、これを淮水の岸からどしどし船積みして何処ともなく運び去った。
残るはただ満々たる水と、空骸にひとしい城があるばかり。――曹操以下、寄手の三十万が、城下へ殺到したのは、実にその直後だったのである。
ここへ来て、曹操もまた、大いに弱っていた。
寿春へ近づくほど、水害の状況がひどい。想像以上な疲弊である。
城内の町は分らないが、郊外百里の周囲は、まだ洪水のあとが生々しく、田は泥湖と化し、道は泥没し、百姓はみな木の皮を喰ったり、草の葉に露命をつないでいる状態である。果然、彼の兵站部は大きな誤算にゆきあたって、
「どうしたら三十万の兵を養うか」に苦労しはじめた。
遠征の輜重は、もとよりそう多くの糧米は持ってあるけない。行く先々の敵産が計算に入れてある。
「これ程とは!」
と、糧米総官の王垢が、この地方一帯の水害を見た時、茫然、当惑したのも無理はなかった。
それも、七日や十日は、まだ何とかしのぎもついてゆく。
半月となるとこたえて来た。
ところが滞陣はすでに一ヵ月に近くなった。陣中の兵糧は涸渇を呈した。
「一時に攻め陥せ」
むろん曹操もあせりぬいている。しかし攻城作戦のほうも水害のため、兵馬のうごきは不活溌となるし、城兵は頑強だし、容易にはかどらないのである。
秋高の天、地は水旱
精兵は痩せ、肥馬は衰う
呉船来るを待つや急なり
慈米十万は百万騎に勝る
二
「すぐ糧米を運漕せよ」と、彼の乞いに応じるべく、本国へ手配をいいやった。
とやかくと、日数はかかった。――そのあいだにも、曹操の陣中では、いよいよ兵糧総官の王垢も悲鳴をあげだしていた。
「丞相。――申しあげます」
「なんだ、王垢と任峻ではないか。両名とも元気のない顔をそろえて何事だ」
任峻は、倉奉行である。
王垢と共に、曹操のまえへ出て、遂に、窮状を訴えた。
「もはや、兵の糧は、つづきません、幾日分もございません」
「それがどうした?」
曹操は、わざと、そううそぶいて云い放った。
「予に相談してどうなるか。予は倉奉行でもないし、兵糧総官でもないぞ」
「はっ……」
「辞めてしまえっ。左様なことぐらいでいちいち予に相談しなければ職が勤まらぬほどなら」
「はいっ」
「――が、こんどだけは、智恵をさずけてやろう。今日から、糧米を兵へ配る桝をかえるがいい。小桝を使うのだ小桝を。――さすればだいぶ違うだろう」
「桝目を減じれば大へん違ってまいります」
「そういたせ」
「はっ」
二人は倉皇と退がって、直ちにその日の夕方から、小桝を用いはじめた。
一人五合ずつの割りあてが、一合五勺減りの小桝となった。もちろん粟、黍、草根まで混合してある飢饅時の糧米なので、兵の胃ぶくろは満足する筈がない。
「どんな不平を鳴らしているか」
曹操はひそかに、下級兵のつぶやきに耳をたてていた。もちろん喧々囂々たる悪声であった。
「丞相もひどい」
「これでは出征の時の宣言と約束がちがう」
「こんなもので戦えるか」
「不平の声がみちているな」
「どうも……取鎮めてはおりますが、如何とも」
「策はあるまい」
「ございません」
「ゆえに予は、おまえから一物を借りて、取鎮めようと思う」
「わたくし如き者から、何を借りたいと仰せられますか」
「王垢。おまえの首だ」
「げッ……?」
「すまないが貸してくれい。もし汝が死なぬとせば、三十万の兵が動乱を起す。三十万の兵と一つの首だ。――その代りそちの妻子は心にかけるな。曹操が生涯保証してやる」
「あっ。それは、それはあんまりです。丞相ッ、助けてください」
王垢は泣きだしたが、曹操は平然と、かねて云い含ませてある武士に眼くばせした。武士は飛びかかッて、王垢の首を斬り落した。
「すぐ陣中に梟けろ」
曹操は命じた。
王垢の首は竿に梟けられて陣中に曝された。それに添える立札まで先に用意されてあった。
立札には、
王垢、糧米を盗み、小桝を用いて私腹をこやす。
罪状歴然。軍法に依ってここに正す。
と、書いてあった。
「さては、小桝を用いたのは、丞相の命令ではなかったとみえる。ひどい奴だ」
「こん夜から三日のうちに、寿春を攻め陥すのだ。怠る者は首だぞ。立ちどころに死罪だぞ!」
三
その夜、曹操は軍兵に率先して、みずから壕ぎわに立ち、
「壕を埋めて押しわたれ。焼草を積んで城門矢倉を焼き払え」と、必死に下知した。
それに対して敵も死にもの狂いに、大木大石を落し、弩弓を乱射した。
矢にあたり、石につぶされる者の死骸で、濠も埋まりそうだった。ために怯み立った寄手のなかに、身をすくめたままで、前へ出ない副将が二人いた。
「卑怯者っ」
曹操は叱咤するや否や、その二人を斬ってしまった。
「まず、味方の卑怯者から先に成敗するぞ」
自身、馬を降りて土を運び、草を投げこみ、一歩一歩、城壁へ肉薄した。
軍威は一時に奮い立った。
一隊の兵は、城によじ登り、早くも躍りこんで、内部から城門の鎖を断ちきった。どッと、喊声をあげて、そこから突っこむ。
堤の一角はやぶれた。洪水のように寄手の軍馬はながれ入る。あとは殺戮あるのみである。守将の李豊以下ほとんど斬り殺されるか生擒られてしまい、自称皇帝の建てた偽宮――禁門朱楼、殿舎碧閣、ことごとく火をかけられて、寿春城中、いちめんの大紅蓮と化し終った。
将領たちを督励して、さらに、追撃の準備をしている数日の間に、
と、許都からの急報である。
曹操は、眉をひそめ、
と、征途を半ばにして、すぐ都へ引揚げた。
と、申入れた。
と、二人に誓いの杯を交わさせた。そして劉玄徳へは、特に、
と、命じた。
とささやいた。