黄忠の矢
一
「しかし、もしご辺に、不覚があった場合は」
孔明が、わざと危ぶむが如く、念を押すと、
「軍法にかけて、この首を、今後の見せしめに献じよう」
張飛は、憤然、誓紙を書いて示した。
こういって、太守金旋をいさめたのは、城将のひとり鞏志という者だった。
「裏切者。さては敵に内通の心を抱いているな」
金旋は怒って、鞏志の首を斬ろうとした。
人々が止めるので、その一命だけは助けてやったが、彼自身は即座に戦備をととのえて、城外二十里の外に防禦の陣を布いた。
張飛の戦法はほとんど暴力一方の驀進だった。しかも無策な金旋はそれに蹴ちらされて、さんざんに敗走した。
そして城中へ逃げてきたところ、楼門の上から鞏志が弓に矢をつがえて、
「城内の民衆は、みな自分の説に同和して、すでに玄徳へ降参のことにきまった」
と、呶鳴りながら、びゅうんと弦を反らした。
すると、関羽からすぐ、返書がきて、
などと、独り留守城にいる無聊を綿々と訴えてきた。
「羽将軍には注意するまでもないと思うが、戦うにはまず敵の実質を知ることが肝要です。長沙の太守韓玄は取るにも足らん人物だが、久しく彼を扶け、よく長沙を今日まで経営して来た良将がひとりおる。その人はもう年六十に近く、髪も髯も真っ白になっているだろう。しかし、戦場に立てば、よく大刀を使い、鉄弓を引き、万夫不当の勇がある。すなわち湖南の領袖、黄忠という――。ゆえに決して軽々しくは戦えない。もしご辺がそれに向うなれば、さらに、三千騎をわが君に仰いで、大兵を以て当らなければ無理であろう」と告げた。
二
彼が、目的地に着いた頃、すでに長沙の城市には、煙が揚っていた。
楊齢というのは、長沙の太守韓玄の股肱の臣で、防戦の指揮官を自分から買って出た大将だったが、この日、関羽がその楊齢を一撃に屠ってしまったので、長沙の兵は潰乱してたちまち城地の第二門へ逃げこんでしまった。
すると、城中からひとりの老将が、奔馬にまたがり、大刀をひっさげて出現して来た。
関羽は、ひと目見るとすぐ、
「来る者は、黄忠ではないか」
「そうじゃ。汝は、関羽よな」
「然り。――その白髪首を所望に参った」
なるほど――と関羽も戦いに入ってから舌を巻いた。
彼の偃月の青龍刀も、黄忠の大刀に逆らわれては、如何とも敵の体へ触れることができなかった。
この決戦は、実に堂々たる一騎打ちの演出であったとみえ、両軍とも、あまりの見事さに、固唾をのんで見とれてしまったといわれている。しかも、なお勝負のつく色も見えなかったが、城の上からそれを眺めていた太守韓玄は秘蔵の一臣を、ここで討たれては味方の大事と心配し出して、
たちまち耳を打つ退き鉦の音に黄忠は、ぱっと馬をかえした。そして急速度に城中へ駈けこむ兵にまじって、彼の馬もその影を没しかけた。
「好敵、待ち給え」
けれど、関羽は、折角、振りかぶった大青龍刀を、なぜか、敵の頭に下さなかった。
そして、
「あら無残。早々、馬を乗り代えて、快く勝負を決せられよ」といった。
黄忠は、馬と一緒に、地上に転んでいたのである。何かにつまずいて彼の乗馬が前脚を挫き折ってしまったためだった。
太守韓玄は、冷や汗をながしていたらしく、黄忠を見ると、すぐいった。
「きょうの不覚は、馬の不覚。汝の弓は、百度放って、百度あたる。明日は、関羽を橋のあたりまでおびき寄せ、手練の矢をもって、彼奴を射止めて見せてくれ」
と励まし、自分の乗馬の蘆毛を与えた。
夜が明けると、関羽はまた、手勢わずか五百ばかりだが、勇敢に城下へ迫って来た。
橋を越えると、黄忠はまた、弓を引きしぼった。しかし今度も、弦は空鳴りしただけだった。
ところが、三度目には、ひょうッと矢うなりがして、まさしく一本の矢が飛んできた。そしてその矢は、関羽の盔の纓を、ぷつんと、見事に射止めていた。
三
「さては、きのうのわが情けを、今日の矢で返したものか」
そうさとったので、関羽は、なおさら舌をふるって、その日は兵を退げてしまった。
一方の黄忠は、城中へもどるとすぐ、太守韓玄の前へ理不尽に引っ立てられていた。
韓玄はもってのほかの立腹だ。声を励まして、黄忠を罵り辱めた。
「城主たるわしに眼がないと思っているのか。三日の間、わしは高櫓から合戦を見ていたのだぞ。然るに、きょうの戦は何事だ。射れば関羽を射止め得たのに、汝は、弓の弦ばかり鳴らして、射たと見せかけ、故意に助けたのではないか。言語道断。察するところ、敵と内通しているにちがいない。恩知らずめ。その弓は、やがて主へ向って引こうとするのだろう」
「ああ、ご主君!」
黄忠は、涙をたれながら、なにか絶叫した――。早口に、その理由を、云い開こうとしたのである。
だが、耳をかす韓玄ではなかった。即刻、刑場へ曳き出して斬れとどなる。諸将が見かねて、哀訴嘆願をこころみたが、
「うるさいっ。やかましい。諫めるものは同罪だぞ」と、いう始末。
長沙の名将黄将軍も、今は刑場の鬼と化すかと、刑にあたる武士や吏員までがかなしんでいたが、たちまち、その執行直前に、周囲の柵を蹴破って、躍りこんで来た壮士がある。
この人、面は丹で塗った棗の如く、目は朗らかにして巨きな星に似ていた。生れは義陽。魏延、字は文長という。
しかし、日頃から韓玄は、彼の偉材を、かえって忌み嫌い、むしろ他国へ逐いやってしまいたいような扱いをしていたので、魏延はひそかに、今日の機会を、待っていたものと思われる。
「さらば、疾く」
「黄忠は、どうしているか」
その後ですぐ訊ねると、魏延は、
「それがしが韓玄を斬るべく奥へ向った時、眼をふさぎ耳を抑えて、自分の邸へ駈けこんで行きました」
「戦は熄んだ。では、迎えをやろう」
その途中、先頭に立てていた青い軍旗の上に、一羽の鴉が舞い下がって啼くこと三度、北から南の空へ飛び去った。
「先生。何か凶兆ではないでしょうか」と、孔明に訊くと、
「いや、吉兆です」と、孔明は、衣の下で何か指をくりながら、卜をたてて答えた。
「これは、長沙の陥落と共に、良将を獲たことを祝福して、鴉が天告をもたらして来たものです。かならず何かいい事がありましょう」
「――病に托して門を出ないのは、黄忠の旧主にたいする忠誠にほかならない。自分が行って迎えてこよう」
四
玄徳は、即日、法三章を掲げて、広く新領土の民へ布告した。
一、不忠不孝の者斬る
一、盗む者斬る
一、姦する者斬る
また、功ある者を賞し、罪ある者を罰して、政を明らかにした。
関羽がひとりの壮士を携えて出頭したのは、そうした繁忙の中であった。
「だれだ、その者は」
「劉皇叔でいらせられる。ご挨拶を申し上げなさい」と、いった。
男は、叉手の礼をしたまま、黙然と面をあげた。朱面黒眉唇大きく鼻秀で、容貌見るべきものがある。
「これはかねて、お耳に入れておいた魏延です。善政の初めに、魏延の功にも、ご一言なりと下し給わらば有難うぞんじまする」
「不義士っ。階を汚すなかれ!」
勃然と叱った者がある。
「魏延に賞を賜うなど以てのほかです。彼、もとより韓玄とは、何の仇あるに非ず。かえって、一日でもその禄を食み、かりそめにも、主君とたのみ、仰いでいた人です。それを、一朝の変に際し、たちまち殺してご麾下に馳せ参ず。――これ味方にとっては大幸といえますが、天下の法を道に照らしては、免し難き不忠不義です。君いまこの不仁の徒を見給い、これを斬って諸人に示すほどなご公明がなければ、新領土の民も服しますまい」
孔明は、武士を呼んで、即座に魏延を斬れと命じた。
「待て、待て」
と、武士たちを制し、孔明をなだめて、魏延のために、命乞いをすらしたのである。
「味方に功を寄せ、また降順をちかい、折角、わが麾下へひざまずいて来た者を、たちまち、罪をかぞえて斬りなどしたら、以後、玄徳の陣門に降を乞う者はなくなるだろう。魏延はもと荊州の士、荊州の征旗を見て帰参したのは、決して不義ではない。韓玄に一日の禄をたのんだといえ、韓玄も実心をもって彼を召抱えたわけでもなく、魏延もそれに臣節を以て仕えたわけではなかろう。彼の心はもとから荊州へ復帰したい念願であったにちがいない。いかなる人間でも落度をかぞえれば罪の名を附すことができる。どうか一命は助けてとらすように」
「露骨にいいますと、今、私が魏延の相を観るに、後脳部に叛骨が隆起しています。これ謀叛人によくある相であります。ですから、いま小功を挙げて、これを味方にするも、後々、かならず叛くに違いありません。むしろ今、誅を加えて、禍いの根を断ったほうがよろしいかと存じたのでありますが、わが君がそれほどまで、ご不愍をおかけ遊ばすものを、孔明とて、如何とも致し方はありません」
「……魏延、聞いたか。かならず今日のことを忘れずに、異心を慎めよ」
玄徳にやさしく諭されて、魏延はただ感泣に咽せていた。