吟嘯浪士
一
主従は相見て、狂喜し合った。
「おう、趙雲ではないか。どうして、わしがここにいるのが分った」
「ご無事なお姿を拝して、ほっと致しました。この村まで来ると、昨夜、見馴れぬ高官が、童子に誘われて、水鏡先生のお宅へ入ったと百姓から聞きましたので、さてはと、まっしぐらにお迎えにきたわけです」
主の司馬徽も、そこへ来て、共に歓びながら、こう注意した。
「百姓たちの噂にのぼっては、ここに長居も危険です。部下の方々の迎えに見えられたこそ幸い、速やかに新野へお立ち帰りあれ」
実にもと、玄徳はすぐ暇を告げて、水鏡先生の草庵を去った。そして十数里ほどくると、飛ぶが如く一手の軍勢のくるのに出会った。
と、ありし顛末をつぶさに物語った。
愁眉をひらいた彼の臣下は、同時に、蔡瑁を憎み憤った。
「おそらく、劉表は、何も知らないことに違いありません。あなたを殺す計画に失敗した蔡瑁は、自己の罪を蔽うために、こんどはいかなる讒訴を劉表へするかも知れたものではない。こちらからも早く、ありし次第を、明白に訴えておかなければ、いよいよ彼奴の乗ずるところとなりましょう」
孫乾の説であった。
「蔡瑁を呼べっ」
いつにない激色である。そして蔡瑁が階下に拝をなすや否、頭から襄陽の会の不埓をなじって武士たちに、彼を斬れと命じた。
「継母の蔡夫人は、弟の琮を世継ぎに立てたいため、なんとかして、私を殺そうとしています。一体、どうしたらこの難をのがれることができましょうか」
「ただよく孝養をおつくしなさい。いかにご継母であろうと、あなたの至孝が通じれば、自然禍いは去りましょう」
琦を送って、その帰り途、玄徳が城中へ入ろうとして、町の辻まで来ると布の衣に、一剣を横たえ頭に葛の頭巾をいただいた一人の浪士が白昼、高らかに何か吟じながら歩いてきた。
二
ふと、駒をとめて、市の騒音の中に、玄徳は耳を澄ましていた。孤剣葛巾の浪士は、飄々乎として辻を曲がってこなたへ歩いてくる。
その歌うのを聞けば、――
天地反覆火殂セント欲ス
聖主ハ賢ヲ捜ルモ却ッテ吾ヲ知ラズ
「……はてな?」
彼は馬からおりて、浪士が側を通るのを待っていた。布衣草履少しも身は飾っていないが、どこかに気概の凛たるものを備え、赭顔疎髯、まことに渋味のある人物だ。
「あいや、ご浪人」
玄徳は呼んで話しかけた。浪士は怪しんでじろじろ彼を視つめる。もの云えばさびのある声で、眼光はするどいが、底にたまらない情味をたたえていた。
「何ですか。――お呼びになったのは拙者のことで?」
「そうです。まことに唐突ですが、何ですか、あなたと私とは、路傍でこのまま相へだたってしまう間がらではないような気がしてなりません」
「ははあ……?」
「いかがでしょう。私と共に、城中へお越し下さるまいか。一献酌みわけて、さびのあるあなたの吟嘯を、清夜、さらに心腸を澄まして伺いたいと思うが」
「ははは、拙者の駄吟などは、お耳を汚すには足りません。けれど路傍の人でない気がすると仰っしゃったお言葉に感謝する。――お伴しましょう」
浪士は気軽であった。
単福は、それ以上、素姓も語らず、たちまち話題を一転して、こう求めた。
「さいぜん、あなたの乗っていた馬をもう一度、庭上へ曳きだして、拙者に見せて下さいませんか」
「おやすいことです」
「これは千里の駿足ですが、かならず主に祟りをなす駒です。よく今まで何事もありませんでしたな」
「されば、人からも、たびたび同じ注意をうけましたが、祟りどころか、先頃、檀渓の難をのがれ、九死に一生を得たのはまったくこの馬の力でした」
「それは、主を救うたともいえましょうが、馬が馬自身を救ったのだともいえましょう。ですから祟りは祟りとして、一度はきっと、飼主に禍いします。――が、その禍いを未然にのぞく方法も決してないではありません」
「そういう方法があるならば、是非、お教えを仰ぎたいが」
「お伝えいたそう。その方法とは、すなわちかの馬を、しばらくの間近習の士に貸しておくのです。そしてその者が祟りをうけて後、君の手に取り戻してご乗用あれば、まずもって心配はありません」
聞くと、玄徳は急に、不愉快な色を面にあらわして、家臣を呼び、
「湯を点ぜよ」
と、素っ気なくいいつけた。
湯を点ぜよ――ということは、ちょうど、酒客に対して茶を出せとか、飯にしろとか、主人が給仕の家族へ促すのと同じことである。つまり主人から酒の座を片づける意味を表示したことになる。
「お待ちなさい。わざわざ拙者を呼び迎えながら、湯を点ぜよとは、何事であるか、何で急に客を追い立て給うか」
単福としてはなお、面白くないに違いない。杯を下において、こう開き直った。
三
「君を伴って、ここへ客として迎えたのは、君を志操の高い人と見たからであった。しかるに今、汝の言を聞けば、仁義を教えず、かえって、不仁の佞智をわれにささやく。玄徳はそういう客へ礼遇はできない。早く立ち帰ったがよかろう」
「お怒りあるな。実はわざと心にもない一言を呈して、あなたの心を試してみたまでです。どうか水に流して下さい」
「いや、それなら歓ばしい限りです。願わくは、真実の言を惜しまれず、玄徳のために、仁政を論じ、善き経綸をお聞かせたまわりたい」
「拙者が潁上からこの地方へ遊歴してくる途中、百姓のうたうのを聞けば――新野ノ牧劉皇叔、ココニ到リテヨリ地ニ枯田ナク天ニ暗日ナシ――といっていました。故に、ひそかにお名を心に銘じ、あなたの徳を慕っていた拙者です。もし菲才をお用いくださるなら何で労を惜しみましょう」
「かたじけない。人生の長い歳月のうちでも、賢に会う一日は最大の吉日とかいう。今日は何という幸いな日だろう」
玄徳の歓びようといったらなかった。彼は今、新野にあるとはいえ、その兵力その軍備は、依然、徐州の小沛にいた当時とすこしも変りない貧弱さであった。けれどその弱小も貧しさも嘆きはしなかった。ただ、絶えず心に求めてやまなかったものは「物」でなく、「人物」であった。司馬徽に会ってからは、なおさら、その念を強うし、明けても暮れても、人材を求めていたことは、その日の彼の歓び方をもっても察することができる。
そうした玄徳であるから、
(この人物こそ)と見込むと、実に思いきった登用をした。すなわち単福をもって、一躍軍師に挙げ、これに指揮鞭を授けて、
(わが兵馬は、足下に預ける。足下の思うまま調練し給え)と、一任した。
呂曠、呂翔が献策した。
「単福、何とすべきか?」
玄徳は、軍師たる彼に計った。とうてい、まだ他と戦って勝てるほどな軍備はできていなかった。
「お案じ召さるな。弱小とはいえお味方をのこらず寄せれば、二千人はあります。敵は五千と聞きますから、手ごろな演習になりましょう」
実戦に立って、単福が軍配をとったのは、この合戦が初めてであった。