奇舌学人
一
「玄徳にはなんの野心もありません。ひたすら朝廷をうやまい、丞相にも服しております。のみならず土地の民望は篤く、よく将士を用い、敵のわれわれに対してすら徳を垂れることを忘れません。まことに人傑というべきで、ああいう器を好んで敵へ追いやるというのも甚だ策を得たものではあるまいと存じまして」
皆まで聞かないうちに、曹操の眉端はピンとはね上がっていた。烈火の如き怒りをふくんだ気色である。
彼はまた左右の武将をかえりみて云った。かくの如く、他国に征して、他国にわが名を辱めた不届き者は、諸人の見せしめ、各営門を曳き廻した上、死罪にせよ、と厳命した。
すると、かたわらに在った孔融が、彼の怒気をなだめて云った。
「もともと劉岱、王忠の輩は、玄徳の相手ではありません。それは、丞相もあらかじめお感じになっていたことかと拝察いたします。しかるを今、その結果を両名の罪にばかり帰して、これを死罪になし給えば、かえって諸人の胸に丞相のご不明を呼び起し、同じ主君に仕える者どもは、ひそかに安き思いを抱かないでしょう。これは、人心を得る道ではありません」
「今、極寒の冬の末に向って、みだりに兵を動かすのも如何なものでしょうか。来春を待ってご発向あるも遅くはありますまい。その間になすべきことがないではありません。まず外交内結、国内を固めておくべきでしょう。愚臣の観るところでは、荊州の劉表と、襄城(河南省・許昌西南)の張繍とは、ひそかに聯携して、あえて、朝廷にさえ不遜な態度を示しています。――いま丞相が使臣をそれへ遣わされて、その不平を慰撫し、その欲するものを与え、その誇るものを煽賞し、一時、虫をこらえて、礼を厚うしてお迎えあらば、彼らはかならず来って丞相の麾下に合流しましょう。――すでに荊州襄城のふたつを、丞相の勢力下に加えておしまいになれば、天下、ひびきに応ずるごとく、諸〻の群雄も、風になびいてくるにちがいありません」
「その経策は、予の意志とよく合致する。さっそく、人をやろう」
「当今、乱麻の世にあたって、その仁、その勇、その徳、その信、その策、真に漢の高祖のような英傑を求めたなら、わが主君、曹操をおいてはほかにあろうとも思われません。あなたは湖北に隠れなき烱眼洞察の士と聞いていますが、どう思われますか」
「然り。わたくしの考えも同じである」
「この際、おすすめに任せて、曹丞相に服し給うこそ、ご当家にとっても、最善な方策でありましょう」と、転向をうながした。
二
同じ密命をもった一国の使臣と使臣が、その目標国の城内で、しかも同じ時にぶっつかったのである。
「ご心配には及ばん。あなたは、拙者の私邸に移って、成行きを見ておられるがいい」
「さきごろ、貴国では、兵を催して、曹操を攻められた由ですが、まだ寡聞にして、その結果を聞いておりません。勝敗はどうついたのですか」
特使は、答えていう。
「なにぶん冬期にかかりましたので、しばらく戦を休め、決戦は来春のこととして、待機しておるわけであります。――折からわが大君袁紹におかれては、常に荊州の劉表と襄城の張繍とは、共に真の国士なり、と仰せられていましたが、せつに両雄を傘下にお迎えありたい意志があります。依って不肖それがしを使いとして、今日、さし向けられた次第。よろしく台下にお取次ぎあらんことを」
再拝して、切口上を述べたてるのを、賈詡はあざ笑って、
「なにかと思えば、そんなことであったか。特使にはご苦労だったが、はやはや国へ立ち帰って、袁紹にしかと告げよ。――自分の骨肉たる袁術に対してさえ、常に疑いをさし挟んで容れ得なかったではないか。そんな狭量をもって、いずくんぞ天下の国士を招いて用いることができようか――と」
書簡を破りすてて、追い返してしまったので、それを後で聞いた彼の主人張繍は色を失って、
「なんで、儂にも取次がずに、そんな無礼を振舞ったか」と、賈詡をなじった。
賈詡は、恬然として、
「同じ下風につくなら、曹操に降ったほうがましだからです」と、いった。
張繍は、顔を横に振って、
「否とよ。其方はもう往年の戦を忘れたのか。儂と曹操とは、宿怨のあいだがら、以来何も溶けてはいない。――いまもし、彼の誘交にまかせて、彼の下風に降れば、後にかならず害されるにきまっておる」
「いやいや、それは余りにも、英傑の心事を知らないものです。曹操の大志、なんで過去の敗戦などを、いつまで怨みとしていましょう。――また、袁紹と比較してみると、曹操には、三つの将来が約されています。一は、天子を擁し、二は時代の気運にそい、三は、大志あってよく治策を知ることです」
「わたくしは、現世を問うのではありません。将来を云っているのであります。まず一、二年ぐらいな安泰をお望みなら、袁紹のほうへおつきなさい」
「曹操は、決して、過去の讐などを、くよくよ心にとめている人ではありません。そんなことにこだわっているほどなら、何で今日、礼を厚うして、わたくしなどを差しつかわしましょうや」
と、説いた。
三
第一には、江岸の肥沃な地にめぐまれていたし、兵馬は強大だし、かつては江東の孫策の父孫堅すら、その領土へ侵入しては、惨敗の果てその身も戦死をとげ、恨み多き哀碑を建てて、いたずらに彼を誇らせたほどな地である。
――で、当然のように。
「自分から劉表へ書簡をしたためましょう。わたくしと彼とは、多年の交わりですから」
と、申し出た。
彼は、書簡のうちに、天下の趨勢やら、利害やらこまごま書いて、公私の両面から、説破を筆に尽したが、なお念のために、
「たれか、弁舌の士が、これをたずさえて行けば、かならず功を奏すかと思いますが」
と、云い添えて、曹操の手もとへさし出した。
「誰か、しかるべき説客はないだろうか」
「禰衡とは、いかなる人物か」
「わたくしの邸の近所に住んでいるものであります。才学たかく、奇舌縦横ですが、生れつき狷介で舌鋒人を刺し、諷言飄逸、おまけに、貧乏ときていますから、誰も近づきません。――しかし、劉表とは、書生時代から交わりがあって今でも文通はしておるらしいようです」
「それは適任だ」
すぐ召し呼べとあって、相府から使いが走った。
「ああ、人間がいない、人間がいない。天地の間は、こんなに濶いのに、どうして人間は、こういないのだろう!」と、大声を発していった。
曹操は聞きとがめて、
「禰衡とやら、なんで人間がいないというか、天地間はおろか、この閣中に於てすら、多士済々たる予の麾下の士が眼に見えぬか」と、彼も、大音でいった。
禰衡は、かさかさと、枯葉のように笑って、
「ははあ、そんなにおりましたかな。願わくば、どう多士済々か、どう人間らしいのがいるか、つまびらかに、その才能をうかがいたいものだが」と、何のおそれ気もなく云い放った。
かねて、奇弁畸行の学者と、その性情を聞いている上なので、曹操も別に咎めもせず、また驚きもせず、
「おもしろい奴、しからば右列の者から順に教えてやるから、よく眼に観、耳に聞いておぼえておくがよい――まずそれにおる荀彧、荀攸はみな智謀ふかく、用兵に達し、いにしえの蕭何とか、陳平などという武将も遠く及ばん人材である。また次なる張遼、許褚、李典、楽進の輩は勇においてすぐれ、その勇や万夫不当、みな千軍万馬往来の士である。なお見よ。左列の于禁、徐晃のふたりは、古の岑彰、馬武にも勝る器量をそなえ、夏侯惇は、軍中の第一奇才たり。曹子孝は、平常治策の良能、世間の副将というべきか。――どうだ、学人。これでも人なしというか」
四
禰衡は、聞くとたちまち、腹をかかえて傍若無人に打笑った。
「さてさて、丞相もよい気なもの哉。――わが観る眼とは、大きに違う」
「臣を観ること君に如かず――というに、この曹操が麾下に対してさる眼ちがいでは大事を誤ろう。学人、忌憚なく、汝の評をいってみよ」
「では、わしが遠慮なく、列座の面々を月旦するが、気を腐らしたもうなよ。――まず、荀彧には病を問わせ、喪家の柩を弔わしむべし。荀攸には、墓を掃かせ、程昱には門の番をさせるがいい。郭嘉には、文を書かせ詩でも作らせておけば足る。張遼には、鼓の皮でも張らせ、鉦をたたかせたら上手かも知れん。許褚には、牛馬や豚を飼わせておけばよくやるだろう。李典は、書簡を持たせて、使奴につかえば似合う。満寵には、酒糟でも喰らわせておき、酒樽のタガを叩かせておくとちょうどいい。徐晃は、狗ころしに適任だ。于禁は、背に板を負わせて、墻をきずかせればよく似合うし、夏侯惇は片目だから眼医者の薬籠でも持たせたら、恰好な薬持ちになれるだろうに。――そのほかの者どもに至っては、いちいちいうもわずらわしいが、衣を着るゆえに衣桁の如く、飯をくらうゆえに飯ぶくろの如く、酒を飲むゆえに酒桶の如く、肉をくらうがゆえに肉ぶくろに似たるのみだ。時に、手足をうごかし、時に口より音を発するからとて、人間なりとは申されん。蟷螂も手足を振舞い蚯蚓も音を発する。――丞相のおん眼はふし穴か、これがみな人間に見えるとは。――ああ、おかしい、ああおかしい」
ひとり手を打って笑う者は禰衡だけで、あまりな豪語と悪たいに、満堂激色をしずめて寂としてしまった。
さすがの曹操も、心中ひどく怒りを燃やしていた。あらかじめ、奇舌縦横の野人と、断りつきを承知で招いたので、どうしようもなかったが、にが虫を噛みつぶしたような面持で、
「学人。さらばそちに問うが、そち自身は、そもそも、なんの能があるかっ」
と、憤然、高いところから声をあらげて質問した。
禰衡は、にんやりと唇を大きくむすんで、傲慢不遜な鼻の穴を、すこし仰向けながら、鼻腔で息をした後、
「――天文地理の書、一として通ぜずということなく、九流三教の事、暁らずということなし。そのことばは、かくいう禰衡を称するためできているようなものだ。……いやまだ云い足らん。上はもって君を尭舜にいたすべく、下はもって徳を孔顔に配すべし。……ちと難しいな。わかるまい。もっとくだけていおうならば、胸中には、国を治め、民を安んずる経綸がいっぱいで、ほかに私慾をいれる余地もないくらいだというのだ。こういう器をこそ、ほんとの人間というので、そこらの糞ぶくろとひとつに観られては迷惑する」
すると、突然、列座のなかほどで、剣環が鳴ったと思うと、
「いわしておけば、いいたい放題な悪口を。――うぬっ、舌長な腐れ学者め! うごくなっ」と、どなりながら、起ちあがった者がある。
「待てっ」
曹操は、鋭く押しとどめて、かつ、語をあらためて、列臣へ告げわたした。
「いま、禁裡の楽寮に、鼓を打つ吏員を欠いておると聞く。――近日、朝賀のご酒宴が殿上で行われるから、その折、禰衡をもちいて鼓を打たそうではないか。――いかに学人、行くとして可ならざるなきそちの才能とあれば、鼓も打てよう。異存はあるまいな」
「なに、鼓か。よろしい」と、ひきうけて、その日は、悠々と退いた。