愚兄と賢弟
一
出稼ぎの遠征軍は、風のままにうごく。蝗のように移動してゆく。
近頃、風のたよりに聞くと、曹操の古巣の兗州には、呂布の配下の薛蘭と李封という二将がたて籠っているが、軍紀はすこぶるみだれ兵隊は城下で掠奪や悪事ばかり働いているし、城中の将は、苛税をしぼって、自己の享楽にばかり驕り耽っているという。
「今なら討てる」
「われわれの郷土へ帰れ!」
颷兵は、またたくまに、目的の兗州へ押寄せた。
李封、薛蘭の二将は、「よもや?」と、疑っていた曹軍を、その目に見て、驚きあわてながら、駒を揃えて、討って出た。
「お目見得の初陣に、あの二将を手捕りにして、君前へ献じましょう」といって、駆け出した。
見ているまに、許褚は、薛蘭、李封の両人へ闘いを挑んで行った。面倒と思ったか、許褚は、李封を一気に斬ってしまった。それにひるんで、薛蘭が逃げ出してゆくと、曹操の陣後から、呂虔がひょうッと一箭を放った。――箭は彼の首すじを射ぬいたので、許褚の手を待つまでもなく、薛蘭も馬から転げ落ちた。
「この勢いで濮陽も収めろ」と、呂布の根城へ逼った。
「出ては不利です」と、籠城をすすめたが、
「ばかをいえ」と、呂布はきかない。
呂布の勇猛は、相変らずすこしも老いていない。むしろ年と共にその騎乗奮戦の技は神に入って、文字どおり万夫不当だ。まったく戦争するために、神が造った不死身の人間のようであった。
「おうっ、自分にふさわしい好敵手を見つけたぞ」
「いで、あの敵を!」と、目がけてかかった。
「助太刀」と、喚きかかったが、この両雄が、挟撃しても、呂布の戟にはなお余裕があった。
わが城門の下まで引揚げて来た。だが、呂布はあッと駒を締めて立ちすくんだ。こは抑いかに? ――と眼をみはった。
城門の吊橋がはね上げてあるではないか。何者が命令したのか。彼は、怒りながら、大声で、濠の向うへどなった。
「門を開けろ。――橋を下ろせ! ばかっ」
「いけませんよ。呂大将」
田氏は歯をむいて城壁の上から嘲笑を返した。
「きのうの味方もきょうの敵ですからね。わたくしは初めから利のあるほうへ付くと明言していたでしょう。もともと、武士でもなんでもない身ですから、きょうからは曹将軍へ味方することにきめました。どうもあちらの旗色のほうが良さそうですからな。……へへへへ」
二
呂布は牙を噛んで、
「やいっ、開けろ、城門を開けおらんか。うぬ、憎ッくい賤民め、どうするか見ておれ」
と、口を極めて罵ってみたが、どうすることもできないのみか、城壁の上の田氏は、
「もうこの城は、お前さんの物ではない。曹操様へ献上したのだ。さもしい顔をしていないで、足もとの明るいうちに、どこへでも落ちておいでなさい。――いや、なんともお気の毒なことで」
といよいよ、嘲弄を浴びせかけた。
利を嗅いで来た味方は、また利を嗅いで敵へ去る。小人を利用して獲た功は、小人に裏切られて、一挙に空しくなってしまった。呂布は、散々に罵り吠えていたが、結局、そこで立ち往生していれば、曹軍に包囲されるのを待っているようなものである。ぜひなく定陶(山東省・定陶)をさしてひとまず落ちて行った。
かくと聞いて、陳宮は、
「田氏を用いて、彼に心をゆるしていたのは、自分の過ちでもあった」
城地を失うと、とたんに、従う兵もきわだって減ってしまう。
(この大将に従いていたところで――)と、見限りをつけて四散してしまうのである。田氏は田氏ひとり在るのみではなかった。無数の田氏が離合集散している世の中であった。
だが、ひとたび敗軍を喫して漂泊の流軍に転落すると、大将や幕僚は、結局そうなってくれたほうが気が安かった。何十万というような大軍は養いかねるからである。いくら掠奪して歩いても、一村に千、二千という軍がなだれこめば、たちまち村の穀倉は、いなごの通った後みたいになってしまう。
審配は、率直に答えた。
「およしなさい、呂布は天下の勇ですが、半面、豺狼のような性情を持っています。もし彼が勢力を持ち直して、兗州を奪りかえしたら、次には、この冀州を狙って来ないとは限りません。――むしろ曹操と結んで、呂布のごとき乱賊は殺したほうがご当家の安泰でしょう」
「大きにそうだった」
呂布はうろたえた。
逆境の流軍はあてなく歩いた。
「あわれ。彼も当世の英雄であるのに」
「とんでもないことです」
家臣の糜竺は、出先をさえぎって、極力止めた。
三
糜竺はいうのである。
「呂布の人がらは、ご承知のはずです。袁紹ですら、容れなかったではありませんか。徐州は今、太守の鎮守せられて以来、上下一致して、平穏に国力を養っているところです。なにを好んで、餓狼の将を迎え入れる必要がありましょう」
「その意見は正しい」と、いわんばかりの顔してうなずいた。
劉玄徳も、うなずきはしたけれど、彼はこういって、肯かなかった。
「なるほど、呂布の人物は、決して好ましいものではない。――けれど先頃、もし彼が曹操のうしろを衝いて、兗州を攻めなかったら、あの時、徐州は完全に曹操のために撃破されていたろう。それは呂布が意識して徐州にほどこした徳ではないが、わしは天佑に感謝する。――今日、呂布が窮鳥となって、予に仁愛を乞うのも、天の配剤かと思える。この窮鳥を拒むことは自分の気持としてはできない」
「……は。そう仰っしゃられれば、それまでですが」
糜竺も口をつぐんだ。
「どうも困ったものだよ。われわれの兄貴は人が好すぎるね。狡い奴は、その弱点へつけ込むだろう。……まして、呂布などを出迎えに出るなんて」と、不承不承従った。
「なんでそれがし如きを、かように篤く迎えられるか、ご好意に応えようがない」
と、いうと、劉備は、
「いや私は、将軍の武勇を尊敬するものです。志むなしく、流亡のお身の上と伺って、ご同情にたえません」
呂布は、彼の謙譲を前に、たちまち気をよくして、胸を張った。
「いや、察して下さい。天下の何人も、どうすることもできなかった朝廟の大奸董卓を亡ぼしてから、ふたたび李傕一派の乱に遭い、それがしが漢朝に致した忠誠も水泡に帰して、むなしく地方に脱し、諸州に軍を養わんとしてきましたが、気宇の小さい諸侯の容れるところとならず、未だにかくの如く、男児の為すある天地をたずね歩いておる始末です」と、自嘲しながら、手をさしのべて、玄徳の手を握り、「どうですか。将来、貴下のお力ともなり、また、それがしの力ともなっていただいて、共々大いにやって行きたい考えですが……」
「将軍。これをお譲りしましょう。陶太守の逝去の後、この地を管領する人がないため、やむなく私が代理していましたが、閣下がお継ぎ下さればこれに越したことはありません」
「えっ、それがしに、この牌印を」
呂布は、意外な顔と同時に、無意識に大きな手を出して、次にはすぐ、(しからば遠慮なく)と、受取ってしまいそうな容子だったが、ふと、玄徳のうしろに立っている人間を見ると、自分の顔いろを、くわッと二人して睨みつけているので、
「ははははは」と、さり気なく笑って、その手を横に振った。
「何かと思えば、徐州の地をお譲り下さるなどと、あまりに望外過ぎて、ご返辞にうろたえます。――それがしは元来、武弁一徹、州の吏務をつかさどるなどということは、本来の才ではありません。まあ、まあ」
と、云いまぎらわすと、側にいた彼の謀臣陳宮も、口をあわせて辞退した。
四
呂布は、翌る日、
「その答礼に」と、披露して、自分の客舎に、玄徳を招待したいと、使いをよこした。
「お出でになるつもりですか」
「行こうと思う、折角の好意を無にしては悪いから」
「いや、わしはどこまでも、誠実をもって人に接してゆきたい」
「その誠実の通じる相手ならいいでしょうが」
「通じる通じないは人さまざまで是非もない。わたしはただわしの真心に奉じるのみだ」
玄徳は、車の用意を命じた。
「何ぶん、旅先の身とて、充分な支度もできませんが」と、断って、直ちに、後堂の宴席へ移ったが、日ごろ質素な玄徳の眼には、豪奢驚くばかりだった。
宴がすすむと、呂布は、自分の夫人だという女性を呼んで、
「おちかづきをねがえ」
と、玄徳に紹介わせた。
夫人は、嬋娟たる美女であった。客を再拝して、楚々と、良人のかたわらに戻った。
呂布はまた、機嫌に乗じてこういった。
「不幸、山東を流寓して、それがし逆境の身に、世間の軽薄さを、こんどはよく味わったが、昨日今日は、実に愉快でたまらない。尊公の情誼にふかく感じましたよ。――これというのも、かつて、この徐州が、曹操の大軍に囲まれて危殆に瀕した折、それがしが、彼の背後の地たる兗州を衝いたので、一時に徐州は敵の囲みから救われましたな。――あの折、この呂布がもし兗州を襲わなかったら、徐州の今日はなかったわけだ。――自分の口からいっては恩着せがましくなるが、そこをあなたが忘れずにいてくれたのは実によろこばしい。いい事はしておくものだ」
玄徳は、微笑をふくんで、ただうなずいていたが、今度は、彼の手を握って、
「はからずも、その徐州に身を寄せて、賢弟の世話になろうとは。――これも、なにかの縁というものだろうな」
と酔うに従って、呂布はだんだんなれなれしく云った。
始終、気に入らない顔つきをして、黙って飲んでいた張飛は、突然、酒杯を床へ投げ捨てたかと思うと、
「何、なんだと、もういちどいってみろ」と、剣を握って突っ立った。
なにを張飛が怒りだしたのか、ちょっと見当もつかなかったが、彼の権まくに驚いて、呂夫人などは悲鳴をあげて、良人のうしろへ隠れた。
「こらっ呂布。汝は今、われわれの長兄たり主君たるお方に対して、賢弟などとなれなれしく称んだが、こちらはいやしくも漢の天子の流れをくむ金枝玉葉だ、汝は一匹夫、人家の奴に過ぎない男ではないか。無礼者め! 戸外へ出ろっ、戸外へ」
酔った張飛が、これくらいなことを云いだすのは、歌を唄うようなものだが、彼の手は、同時に剣を抜き払ったので、馴れない者は仰天して色を失った。
五
「これっ。何をするっ」
「止さないか、場所がらもわきまえずに」と張飛を抱きとめて、壁ぎわへ押しもどした。
が、張飛は、やめない。
「ばかをいえっ。場所がらだから承知できないのだ。どこの馬の骨か分りもしない奴に、われわれの主君たり義兄たるお方を、手軽に賢弟などと、弟呼ばわりされてたまるか」
「わかったよ、分った」
「止せといったら。それだから貴様は、真情ですることも、常に、酒の上だと人にいわれるのだ」
「酒の上などではない」
「では、黙れ」
「ウウム。いまいましいな」
張飛は、憤然たるまま、ようやく席にもどったが、よほど腹が癒えないとみえて、ひとり手酌で大杯をあおりつづけていた。
劉備は、当惑顔に、
「どうも、折角のお招きに、醜態をお目にかけて、おゆるしください。舎弟の張飛は、竹を割ったような気性の漢ですが、飲むと元気になり過ぎましてな。……はははは」
笑いにまぎらしながら詫びた。
「いやいや、なんとも思っておりはしません。酒のする業でしょうから」
それを聞くと、張飛はまた、
(何ッ?)
宴は白けたまま、浮いてこない。呂夫人も、恐がって、いつの間にか姿を消してしまった。
「夜も更けますから」と、劉備はほどよく礼をのべて門を辞した。
「いい加減にしろっ」と、必死に喰い止めながら、遮二無二帰り道へひいて行った。
そして、いうには、
「あなたのご厚情は、充分にうけ取れるが、どうもご舎弟たちは、それがしを妙に見ておられるらしい。所詮、ご縁がないのであろう――ついては、他国へ行こうと思うので、今日は、お暇乞いに来たわけです」