曹操孟徳

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曹操孟徳(そうそう もうとく)とは
曹操後漢末から三国時代初期にかけて活躍した群雄で、魏の基礎を築いた人物である。字は孟徳(もうとく)。その才能と多面性から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評される。
 
魏王(ぎおう)とは
魏王は曹操が晩年に朝廷から封ぜられた称号である。216年、後漢献帝より魏王に冊立され、許昌を拠点に実質的に帝と同等の権威を握った。名目上は後漢王朝の臣下であったが、魏王としての地位は「天下の覇者」としての正統性を強化するものであった。
 
武帝(ぎぶてい)とは
武帝曹操の死後に贈られた諡号(しごう)である。220年、曹操の子・曹丕後漢から禅譲を受けて魏を建国すると、曹操は追尊され「太祖武皇帝」となり、一般には「魏武帝」と呼ばれるようになった。
「武」の字は、曹操の軍事的な功績や、群雄割拠の時代を平定して国家基盤を築いた実績を示す。曹操は自ら皇帝の位には就かなかったが、子の代で王朝を開いたため、皇帝として祀られることとなった。
 
生涯(詳述)
曹操(155–220)は沛国譙県の出身。父・曹嵩は宦官曹騰の養子で、曹操はこの人脈と自身の才覚を武器に中央政界へ進んだ。若くして洛陽北部尉となり、法を厳格に施行して名声を得た。
黄巾の乱では騎都尉として討伐に参加し、潁川などで功績を挙げた。董卓の専横を嫌って暗殺を試み失敗するが、その後は兗州青州黄巾の降兵を編成(青州兵)し、強力な基盤を築いた。
196年に献帝を許へ迎えて「挟天子以令諸侯」を実現し、後漢政権の名を借りて実質的に中原の覇者となった。198年、下邳呂布を誅殺、200年官渡の戦いでは袁紹を破り河北を掌握。207年白狼山で烏桓を破って北方を制圧した。
208年赤壁の戦いで孫権劉備連合に大敗するが、その後も北方の支配は揺るがず、211年潼関馬超韓遂を撃破、215年には張魯を降して漢中を掌握した。216年に魏王に封ぜられ、制度や屯田制を整備。219年、関羽の北伐に苦しむも孫権を離間させて解決。220年、洛陽で死去し、子の曹丕が魏を建国すると、太祖武皇帝と追尊された。
 
人物(詳述)
曹操は現実主義的で合理的な政治家・軍人であると同時に、詩文に優れた文化人でもあった。
用人においては「唯才是挙」を掲げ、身分を問わず荀彧荀攸郭嘉程昱賈詡司馬懿などを登用。冷酷な判断を下すことも多く、楊修孔融の処刑に見られるように猜疑心も強かった。
軍事では補給・情報を重視し、劣勢を覆す戦略眼に優れる。官渡では烏巣を奇襲して袁紹を破り、白狼山では長駆して異民族の大軍を撃破した。非戦闘要因(疫病や季節、兵糧)まで考慮する実戦派であり、勝てる場で徹底して勝ち切る冷厳さがあった。
文学面では「観滄海」「短歌行」などに代表される建安文学の中心人物で、雄渾さと孤独感を併せ持つ詩を残した。功業への自負と無常観が同居する作風は、政治家と詩人の二面性をよく示す。
倹約・実利を好みつつ、権力維持のための非情さも厭わなかったため、後世には「治世の能臣、乱世の奸雄」と二面評価されている。その人間的複雑さこそが、曹操の最大の魅力である。
 
関連する人物
荀彧(参謀として曹操を支えた)
郭嘉(若くして亡くなった天才軍師)
司馬懿(後の魏を実質的に支配した)
劉備(天下を争った宿敵)
孫権(赤壁で戦った相手)
曹丕(後継者として魏を建国)
 
有名なエピソード
・「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された。
・「青梅煮酒論英雄」で劉備と天下の英傑について語り合った。
・赤壁の戦いで大敗したが、その後も勢力を保持した。
・「短歌行」などの詩作で、英雄的かつ孤独な心情を残した。
 
吉川英治三国志での扱われ方と史実との違い
吉川英治三国志』では、曹操劉備の「仁」と対比される「智と奸」の象徴として描かれる。野心家でありながら人間味のある人物として描かれ、悪役でありつつ読者を惹きつける魅力を放つ。
史実の曹操もまた善悪両面を持つ人物で、単純な悪人ではなく、乱世における現実主義者であった。その複雑な人間性こそが、後世まで語り継がれる理由である。
「曹操孟徳」の基本情報
総登場回数
2942回
活動期間
10巻にわたって登場
初回登場
桃園の巻
最終登場
五丈原の巻
最も活躍した巻
臣道の巻 (583回登場)
「曹操孟徳」登場回数
合計: 2942回
0 145 291 437 583 65 桃園の巻 326 群星の巻 331 草莽の巻 583 臣道の巻 318 孔明の巻 375 赤壁の巻 403 望蜀の巻 419 図南の巻 111 出師の巻 11 五丈原の巻
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