両虎競食の計
一
楊奉の部下が、
「徐晃が今、自分の幕舎へ、敵方の者をひき入れて何か密談しています」
と、彼の耳へ密告した。
楊奉は、たちまち疑って、
「近来、第一の歓びだ」と、いった。
同時に、
旧臣十三人を列侯に封じ、自身は、
大将軍武平侯
という重職に坐った。
許都の令には、功に依って、満寵が抜擢された。
荀彧は、侍中尚書令。
荀攸は軍師に。
劉曄は、司空曹掾に。
催督は、銭料使に。
多士済々、曹操の権威は、自ら八荒にふるった。
彼の出入には、常に、鉄甲の精兵三百が、弓箭戟光をきらめかせて流れた。――それにひきかえて、故老の朝臣は名のみ、大臣とか元老とかいわれても、日ましに影は薄れて行った。
「ああ。――一人除けばまた一人が興る。漢家のご運もはや西に入る陽か」
嘆く者も、それを声には出さないのである。――ただ無力なにぶい瞳のうちに哭いて、木像のごとく帝の側に佇立しているだけだった。
× × ×
軍師、謀士。
そのほか、錚々たる幕僚の将たちが、痛烈に会飲していた。
「あれも、いつのまにか、徐州の太守となりすましているが、聞くところによると、呂布を小沛に置いて扶持しているそうだ。――呂布の勇と、玄徳の器量が、結びついているのは、ちと将来の憂いかと思う。もし両人が一致して、力を此方へ集中して来ると、今でもちとうるさいことになる。――なにか、未然にそれを防止する策はないか」
曹操がいうと、
すると、誰か笑った。
「ははははは。酒瓶ではあるまいし……」
荀彧である。
笑った唇へ、酒を運びながら、謀士らしい細い眼の隅から、許褚をながめて云ったのである。
二
「だめでしょうか、私の策は」
曹操は、面を向けかえて、
「荀彧。――ではそちの考えを聞こうじゃないか。なにか名案があるか」
「ないこともありません」
荀彧は、胸を正した。
「今のところ――ここしばらくは、私は不戦論者です。なぜなら、遷都のあと、宮門そのほか、容はやっと整えましたが、莫大な建築、兵備施設などに、多くを費やしたばかりのところですから」
「む、む……して」
「それは同感だ。――偽って彼らと交友を結べというか」
「二虎競食の計とは」
「たとえば、ここに二匹の猛虎が、おのおの、山月にうそぶいて風雲を待っていると仮定しましょう。二虎、ともに飢えています。よって、これにほかから香ばしい餌を投げ与えてごらんなさい。二虎は猛然、本性をあらわして咬みあいましょう。必ず一虎は仆れ、一虎は勝てりといえども満身痍だらけになります。――かくて二虎の皮を獲ることはきわめて容易となるではございませんか」
「むむ。いかにも」
「あ。なるほど」
「うむ!」
曹操は、大きくうなずいたのみで、後の談話はもうそのことに触れなかった。
「なんであろうか」
「……呂布を?」
彼は眼をみはった。
「何事を曹操からいってよこしたのですか」と、訊ねた。
「まあ、これを見るがいい」
「呂布を殺せという密命ですな」
「そうじゃ」
「いや、彼はたのむ所がなくて、わが懐に投じてきた窮鳥だ。それを殺すは、飼禽を縊るようなもの。玄徳こそ、義のない人間といわれよう」
「――が、不義の漢を生かしておけば、ろくなことはしませんぞ。国に及ぼす害は、誰が責めを負いますか」
「次第に、義に富む人間となるように、温情をもって導いてゆく」
「そうやすやす、善人になれるものですか」
三
呂布は、なにも知らない様子であった。
で――しばらく玄徳とはなしていたが、やがて辞して、長い廊を悠然と退がって来ると、
「一命は貰ったッ」
と、いうや否、大剣を抜き払って、呂布の長躯をも、真二つの勢いで斬りつけて来た。
「あっ」
呂布の沓は、敷き詰めてある廊の瓦床を、ぱっと蹴った。さすがに油断はなかった。七尺近い大きな体躯も、軽々と、後ろに跳びかわしていた。
「貴様は張飛だなっ」
「見たら分ろう」
「なんで俺を殺そうとするか」
「世の中の害物を除くのだ」
「どうして、俺が世のなかの、害物か」
「義なく、節なく、離反常なく、そのくせ、生半可な武力のある奴。――ゆく末、国家のためにならぬから、殺してくれと、家兄玄徳のところへ、曹操から依頼がきている。それでなくても平常から汝はこの張飛から見ると、傲慢不遜で気にくわぬところだ。覚悟をしちまえ」
「ふざけるなっ。貴様ごときに俺が、この首を授けてたまるか」
「あきらめの悪いやつが」
「待てっ、張飛」
「待たん!」
戛然と、二度目の剣が、空間に鳴った。
斬り損ねたのである。
誰か、うしろから張飛の肱を抑えて、抱きとめた者があったからである。
「ええいッ、誰だっ。邪魔するな」
「これっ、鎮まらぬかっ。愚者めが」
「あっ。家兄か」
玄徳は、声を励まして、
「ちぇっ。こんな性根の悪い食客を、兄貴は一体、なんの弱味があってそうまで大事がるのか料簡がわからない」
「だまれ、無礼な」
「誰にですか」
「呂布どのに対して」
「なにをっ……ばかな」
「おゆるし下さい。……あの通りな駄々ッ児です。まるで子どものように単純な漢ですから」
「今、張飛が申したことばの中、曹操から貴君を刺せと密命があったということだけはほんとです。――が、私にはそんな意志がないし、また、要らざることを、貴君の耳へ入れてもと考えて、黙殺していたわけですが、お耳に入ったからには、明らかにしておきましょう」
呂布も、彼の誠意に感じたと見えて、
「いやよく分った。察するところ、曹操は、あなたと自分との仲を裂こうと謀ったのでしょう」
「その通りです」
「失敗だ。これでは、二虎競食の計もなんの意味もない」
と、苦々しげに呟いていた。