兄弟再会
一
その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭がともされ、原始的な音楽が雲の中に聞えていた。
二夫人を迎えて張飛がなぐさめたのである。
「ここから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に乗った気で、ご安心くださるように」
ところが、その翌日。望楼に立っていた物見が、
「弓箭をたずさえた四、五十騎の一隊がまっしぐらに城へ向って寄せてくる」
と、城中へ急を告げた。張飛は聞いて、
「何奴? 何ほどのことかあらん」
「やあ、糜兄弟ではないか」
「オオやはり張飛だったか」
「どうしてこれへは?」
「されば、徐州このかた皇叔のお行方をたずねていたが、皇叔は河北にかくれ、関羽は曹操に降服せりと、頼りない便りばかり聞いて、いかにせんかと、雁の群れの如く、こうして一族の者どもと、諸州を渡りあるいていたところ、近ごろこの古城に、虎髯の暴王が兵をあつめしきりと徐州の残党をあつめておると聞き、さては足下にちがいあるまいと、急にこれへやって来たわけだが」
「そいつは、よく来てくれた。関羽はすでに都を脱して、昨夜からこの城中におる」
「えっ、関羽もおるとか」
「皇叔の二夫人もおいで遊ばす」
「それは意外だった」
張飛は今さら面目なげに、感嘆してやまなかった。
そして羊を屠り山菜を煮て、その夜も酒宴をひらいた。
けれど関羽は、
「ここに家兄皇叔がおいであれば、どんなにこの酒もうまかろう。家兄を思うと、酒も喉を下らない」と、時おり嘆息していた。
孫乾がいった。
「いや、その劉玄徳どのなら、四日ほど前までここにおられたが、城中の小勢を見て、この勢力では事を成すに至難だと仰せられ――また各〻の消息も、皆目知れないので、ふたたび河北の方へもどって行かれた。まったく一足ちがい――」
しきりと惜しがって劉辟はいうのである。
むなしく古城へ帰ってきたが、孫乾はなぐさめて、
「この上は、拙者がもう一度、河北へ行ってみましょう。ご心配あるな。かならずお伴れ申しますから」
その途中、臥牛山の麓までくると、彼は周倉を呼んで、
「いつぞや、ここで別れた裴元紹のところへ、使いに参ってくれい」
と、一言を託した。
二
「近いうちに自分が皇叔をお迎えして帰りにはここを通るから、その折に、一勢を引き具して、途中でお迎えしたがよかろう」と、伝言してやったのである。
関羽はわずかな従者と共に、近くの村へ入ってただの旅人のごとく装い、村のうちでもたたずまいのいい一軒の門をたたいた。
主は、快く泊めてくれた。数日いるうちに、その心根も分ったので、何かのはなしの折、主の問うまま、自分は関羽であると姓氏を打明けた。
主は、驚きもしたり、また非常な歓びを示して、
「それはそれはなんたる奇縁でしょう。てまえの家の氏も関氏で、わたくしは関定というものです」
と、二人の子息を呼んで、ひきあわせた。
どっちも秀才らしい良い息子だった。兄は関寧といって、儒学に長じ、弟のほうは関平とて、武芸に熱心な若者だった。
「もう一度の脱出を、どうして果たそうか。何せい、わしの行動はいま、袁紹や藩中の者どもから、注目されている折ではあるし……」
玄徳の心は、飛び立つほどだったが、身は鉄鎖に囲まれていた。
「……そうだ、簡雍の智恵をかりてみよう。簡雍は近ごろ、袁紹にも信頼されて、おるらしいから」
と急に使いをやって、呼びよせた。
「えっ、簡雍もここに来ていたのですか」
孫乾は、初耳なので、驚きの目をみはった。
その簡雍も、以前の味方だ。聞けば近ごろ玄徳を慕って、この冀州へきていたが、そう見えては袁紹の心証がよくあるまいと察して、わざと玄徳には冷淡にして、つとめて袁紹の気に入るよう城中に仕えているということだった。
そういう間がらなので、簡雍はちょっと来てすぐ帰ったが、目的はその短時間に足りていた。
「曹操とお家との戦いは、否応なく、ついに長期にわたりそうです、強大両国の実力は伯仲していずれが勝れりともいえません。……けれどここに外交と戦争とを併行して、荊州の劉表を味方に加えるの策に成功したら、もはや曹操とて完敗の地に立つしかありますまい」
「それはそうだとも。……しかし劉表も、ここは容易にうごくまい。龍虎ともに傷つけば、かれは兵を用いずして、漁夫の利をうる位置にある」
「いや、それが外交です。九郡の大藩荊州を見のがしておくなど愚かではありませんか」
「それは貴公がいわなくても、とくに気づいて、数度の使者をつかわしたが、劉表あえて結ぼうとせんのじゃ。この上の使いは、わが国威を落すのみであろう」
「いえいえ、不肖玄徳が参れば、期してお味方に加えて見せます。なんとなれば、私と彼とは、共に漢室の同宗で、いわば遠縁の親族にあたりますから」
三
「なに関羽を」
袁紹は急に面をあらためて、
「あははは、いや今のは、いささか戯れをいうてみたまでのこと。わしも実は深く関羽を愛しておる。真実、其許が荊州に赴いて劉表を説き、併せて関羽を連れてくるなら、何でわしが不同意をいおう。すぐ出発してくれい」
「承知しました。……が、大策は前に洩れると行えません。私が荊州に行き着くまでは、お味方に極めてご内分になしおかれますように」
「彼を荊州へお遣わしになったそうですが、実に飛んでもないことをなされました。玄徳はあのような温和な人物ですから、反対に劉表に説き伏せられて、荊州へついてしまう惧れがありはしませんか。劉表も遠大な野心を抱いていますし、彼と彼とは、ともに宗族で親類も同様ですからな」
「木乃伊取りが木乃伊になっては何もならん。いや後日の大害だ。どうしたらいいだろう」
「てまえが追いかけて呼び返して参りましょう」
「それもあまりにわしの面目にかかわるが」
「では、てまえが随員として、玄徳について行きましょう。断じて、ご使命を裏切らぬように」
「そうだ、それが上策。すぐ追ってゆけ」と、関門の割符を与えてしまった。
「しまった!」
「何たる不覚をなされたのですか。さきに玄徳が汝南から帰ってきたのは、汝南はまだ兵力も薄く、自分の事を計るには足らないから見限ってきたのです。こんどはそうは行きません。荊州へ行ったら必ず二度と帰ってはきますまい。それがしに追い討ちをおゆるしあれば、長駆追撃して、彼を首とするか、生捕ってくるか、どっちかにします。どうかご決断ください」
郭図は、長嘆したが、黙々退出するしかなかった。
簡雍はすぐ玄徳に追いついていた。うまく行ったな、と相顧みて一笑した。
冀州の堺も無事に脱けた。
孫乾はさきに廻って、ふたりを待ちうけ、道の案内をしてやがて関定の家へついた。見れば――
四
「おう」
「オー……」
関定は二人の子息とともに、門を開いて玄徳を奥に招じた。住居はわびしい林間の一屋ながら、心からな歓待は、これも善美な贅にまさるものがある。
「袁紹の討手が向わぬうちに」と、一同は次の朝すぐここを出発した。
急ぎに急いで、旅は日ごとにはかどった。やがて雲表に臥牛山の肩が見えだす。次の日にはその麓路へさしかかっていた。
「何故の混乱か」と、関羽は、その中にいた周倉を見つけてただすと、周倉がいうには、
「誰やら為体が分りませぬ。われわれどもが、今日のお迎えのため、勢揃いして山上からおりてまいると、途中一名の浪人者が、馬をつないで路上に鼾睡しています。先頭の裴元紹が、退けと罵ると、山賊の分際で白昼通るは何奴かと、はね起きるやいな裴元紹を斬り伏せてしまったのでござる。――それっと手下の者ども、総がかりとなって、相手の浪人を蔽いつつみましたが、その者の膂力絶倫で、当れば当るほど猛気を加え、如何とも手がつけられません。およそ世の中にあんな武力の持ち主というものは見たこともありません」
関羽は、聞き終ると、
「さらば、その珍しい人物の戟と、この青龍刀とを、久しぶり交じえてみよう」
と、一騎でまっ先に立って、山麓の高所へ馳け上って行った。
「やあ、趙雲ではないか」
「これは計らざる所で、……」とばかり、しばしはただなつかしげに見まもっていた。
趙子龍はずっと以前、公孫瓚の一方の大将として、玄徳とも親交があった。かつては玄徳の陣にいたこともあるが、北平の急変に公孫瓚をたすけ、奮戦百計よく袁紹軍を苦しめたものである。が、力ついに及ばず、公孫瓚は城とともに亡び、以来、浪々の身によく節義をまもり、幾度か袁紹にも招かれたが袁紹には仕えず、諸州の侯伯から礼をもって迎えられても禄や利に仕えず、飄零風泊、各地を遍歴しているうち、汝南州境の古城に張飛がたて籠っていると聞いてにわかにそこを訪ねてみようものと、ここまできた途中である。――と語った。
玄徳はここで君に会うとは、天の賜であると感激して、さらにいった。
「君を初めて見た時から、ひそかに自分は、君に嘱す思いを抱いていた。将来いつかは、刎頸を契らんと」
すると、趙子龍もいった。
「拙者も思っていました。あなたのような方を主と仰ぎ持つならば、この肝脳を地にまみれさせても惜しくはないと――」
五
やがて、古城は近づいた。
待ちかねていた望楼の眸は、はやそれと遠くから発見して、
「羽将軍が劉皇叔をお迎えして参られましたぞ」と、大声で下へ告げた。
喨々たる奏楽がわきあがった。奥の閣からは二夫人が楚々たる蓮歩を運んで出迎える。服装こそ雑多なれ、ここの山兵もきょうはみな綺羅びやかだった。大将張飛も最大な敬意と静粛をもって、出迎えの兵を閲し、黄旗青旗金繍旗日月旗など、万朶の花の一時にひらくが如く翩翻と山風になびかせた。
玄徳以下、列のあいだを、粛々と城内へとおった。
「あの君が、これからの総帥となるのか。あの人が、関羽というのか」
通過のあいだに、ちらと見ただけで、兵卒たちの心理は、その一瞬から変った。もう古城の山兵でも烏合の衆でもなかった。
楽器の音は、山岳を驚かせた。空をゆく鴻は地に降り、谷々の岩燕は、瑞雲のように、天に舞った。
夜は、牛馬を宰して、聚議の大歓宴が設けられた。
「人生の快、ここに尽くる」
「何でこれに尽きよう。これからである」と、玄徳はいった。
「これからだっ! これからだっ!」と、どよめき合った。
顧みれば――
それはすべて忍苦の賜だった。また、分散してもふたたび結ばんとする結束の力だった。その結束と忍苦の二つをよく成さしめたものは、玄徳を中心とする信義、それであった。
さて、日の経つほどに。
ようやく、焦躁と不安に駆られていたのは袁紹である。
そう聞いたときの彼の憤激はいうまでもない。
河北の大軍を一度にさし向けようとすら怒ったほどである。
郭図が、うまいことをいった。
「愚です。玄徳の変は、いわばお体にできた疥癬の皮膚病です。捨ておいても、今が今というほど、生命とりにはなりません。何といっても、心腹の大患は、曹操の勢威です。これを延引しておいては、ご当家の強大もついには命脈にかかわりましょう」
「そうか。……ううム、しかしその曹操もまた急には除けまい。すでに戦いつつあるが、戦いは膠着の状態にある」
「荊州の劉表を味方にしても、大局は決しますまい。何となれば、彼には大国大兵はあっても、雄図がありません。ただ国境の守りに怯々たる事なかれ主義の男です。――あんな者に労を費やすよりは、むしろ南方の呉国孫策の勢力こそ用うべきでありましょう。呉は、大江の水利を擁し、地は六郡に、威は三江にふるい、文化たかく産業は充実し、精兵数十万はいつでも動かせるものとみられます。いま国交を求むるとせば、新興の国、呉を措いてはありません」と、熱心に説いた。
袁紹の重臣陳震が、書を載せて、呉へ下ったのはそれから半月ほど後のことだった。