荊州往来
一
天子、詔を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命がありましたが、南郡にはすでに玄徳あり、臣の得る地は一寸もありません。しかもその玄徳は今、主家のお妹君の婿たり。臣、朝命に忠ならんとすれば、主家の親族にそむく科を得べく、主家に忠ならんとすれば、朝命にもとることと相成ります。
ねがわくは、周瑜の心事を憐み給い、君公のご賢察を仰ぎ奉る――
「黙れ、黙れ。そんな反故を信用して、彼が蜀の国を取るまで待つくらいなら、なにも心配はせん。もし玄徳が一生のうちに蜀へ入ることができなかったらどうするか」
「おそれ入ります。そこまでは」
「私の責任です。願わくはもう一度、荊州へ私をおつかわし下さい」
「きっと話をつけて来るか」
「あくまで、談じて参ります」
ここ、各地の合戦は、すこし歇んでいるようだが、四囲の情勢は依然わるい。とうてい、このまま天下が平和に入るような兆候は、何を観ても考えられない。
「亮軍師。また、魯粛が呉から使いに来たそうだが、会ったらどういおう」
孔明はこう教えた。
「そして?」
「あとは私が、よいように、そこの所を計らいますから」
「恐縮です。魯粛如きに、上座をお譲り遊ばすとは」
「なぜ、ご遠慮あるか」
「以前はともあれ、今はわが主君の婿君たるあなた様をおいて、臣下の私が上に坐るいわれはありません」
「いや、旧交を思うてのこと、左様に謙譲にせずともよい」
「でも、礼儀だけは」と、物堅い魯粛は、あくまで辞退して、横に席を取った。
だが、答礼も終って、いよいよ用件の段階に入ると、さすがにその謙虚も払って、
「呉侯のご命をうけて、再度、それがしがこれへ参った仔細は、疾くご推察であろうが、もっぱら荊州譲渡の事を議せんためであります。すでに呉家と劉家とは、ご婚姻によって、まったく一和同族の誼みすらある今日、なお久しく借り給うてお還しなきは、世上の聞えにも、将来の御為にも、おもしろからぬことかと存ぜられる。この度はぜひそれがしの顔もたてて、お快くご返却ねがいたいと思います」
魯粛は愕いて、
「……これは?」と、ばかり玄徳の哭く様子を見まもっていた。
二
「わかりません」
「蜀の劉璋は、漢朝の骨肉、いわば皇叔とは、血において、兄弟も同じです。もし故なく兵を起して、蜀へ攻め入れば、世人は唾して不徳を罵るであろう。――さりとて、もし荊州を呉侯へ返せば、身を置く国もありますまい」
「わかりました」
「わが君、そのようにご悲嘆ありましては、遂には、心身をそこねましょう。万事は魯粛どのの仁侠と義心にお頼みあそばして、心をひろくお持ち下さい。――また粛公には、呉侯に対して皇叔がこのように苦衷しておられる仔細を、何とぞよろしきように、お伝え給われ。よも、呉侯とて、お怒りはなさるまい」
魯粛は、急に我にかえって、大げさに手を振りながら、
「待って下さい。またしても、むなしく、そんなご返事をもたらして帰ったら、今度こそ呉侯も、どうおっしゃるか分りません」
「いやいや、すでにご自分の妹君を娶合せられた呉侯が、その婿たるお方のかくばかりな苦境をば、何とて他に見ましょうぞ。臣下に対して、表向き、きびしく約束の履行をおっしゃるでしょうが、本心からご立腹なさるわけはありません」
ついに今度も、空手で帰国の途につくしかなかったが、途中、柴桑に船をよせて一泊したついでに、周瑜を訪ねて、この次第を話すと、周瑜は、またしても卿は孔明に一杯喰わされたのだと云い、魯粛のあまりにも善意的な見解をなじって、
「君の性質は、全然、外交官としては零だ。ただ篤実な長者でしかない」
馬鹿といわないばかりに、腹を立てて云った。
「考えても見給え。劉表に身を寄せていた頃から、常に劉表の後釜をうかがっていた玄徳じゃないか。いわんや、蜀の劉璋などに、なんの斟酌を持っているものか。すべて彼と孔明の遷延策にほかならぬものだ。そして何とかかんとかいって荊州を呉へかえさない算段をめぐらしているにきまっておるさ!」
魯粛は、青くなった。
呉侯に取次ぐ言葉がないからである。
「もう一度、荊州へ行って来給え。そんな回答をたずさえて、呉侯の前でおめおめと当り前みたいな顔して申し上げたら、おそらく卿の首はその場でなくなるにきまっている」
周瑜は一大秘策を授けた。
そして玄徳に会うと、こう告げた。
「立ち帰って、あなたのご苦衷と、おなげきの態を、主君孫権へ、ありのまま、お伝えいたした所、主君も大いに同情の色を現し、群臣と共に、ご評議の結果、こういう一案をお立てになりました。おそらく、これには皇叔とても、よも異存はあるまいとの衆議からで……」と、ここに周瑜の智謀から出た退っぴきさせぬ一要求を持ち出した。それは、玄徳の名で蜀へ攻め入るのがまずいならば、呉の大軍をもって、呉が直接、蜀を取る。――だが、その節には、荊州を通過することと、多少の軍需兵糧を補給するという確約をむすんでもらいたいという条件であった。
三
玄徳は、異議なく、協力を誓った。
その前に、孔明からいわれていたので、むしろ歓びを現して、
「呉の兵力をもって、蜀を攻めていただければ、これに越したことはない。ご軍勢の領内通過は、当然なことで、許すも許さないもありません。こう好都合に談がまとまったのも、みな足下のお骨折りと申さねばなるまい」と、魯粛に恩を謝した。
(このたびこそ上首尾に)
「呉の軍勢をもって、蜀を攻め、それを取って、この玄徳に与えようとは、いったいどういう呉侯の肚だろうか」
「なぜ、そういえるか」
「なるほど。往来の日数から数えても、ちと早過ぎるとは思ったが」
「それを知りつつ、なぜ軍師には彼の要求を容れよと、予にすすめたのか」
「時節到来です。お案じ遊ばすな」
一方。
「今度こそ、してやったり、初めて孔明をあざむき得たぞ!」
魯粛は、船をいそがせて、南徐に下り、呉侯に会って云々と報告した。
「さすがは周瑜、これほどな智謀の持ち主は、呉はおろか、当代何処にもおるまい。玄徳、孔明の運命も、ここに極まったり」と、呉侯の共鳴もすばらしいものである。直ちに、早打ちをやって、周瑜を励まし、また程普を大将として、彼を助けしめた。
このとき周瑜は、瘡もあらかた平癒して、膿水も止まり、歩行には不自由ない程度になっていたので、彼は勇躍身を鎧って、みずから戦陣に臨むべく決心した。
時の記録には、彼の心事を描いて、
心ノウチ仕済シタリト打チヨロコビ
と、ある。
おそらく彼の心境はそうだったろうと思われる。夏口へ着くと、彼は土地の役人に訊ねた。
「たれか荊州から迎えは来ていないか」
役人は叩頭して答えた。
「ご遠征、まことにご苦労にぞんじます。主人もすでに、御軍需の用に供える金銀兵糧の用意を済まし、また、諸軍のご慰労などもどうしたがよいかと、心をくだいておられます」
「劉皇叔には、今どこにおらるるか」
「こんどの出陣は、蜀を取って、皇叔に進上せんためであって、まったく貴国の為に働くのであるから遠路を来たわが将士には、充分なもてなしと礼をもって迎えられよ」
と、特にいった。
四
唯々諾々である。糜竺は命ぜられるまま、倉皇として帰って行った。
ところが、公安まで来ても、劉玄徳の出迎えはおろか、小役人の迎えにも会わない。
「荊州までどのくらいあるか。あとの道のりは?」
心に怪しみながら周瑜がたずねると、
「もうわずか十里しかありませぬ」と、彼の幕下たちも眉をひそめ合っている。
「はて。いぶかしい?」と、休息しているところへ、先手の斥候が馬をとばして来て、
「何か、様子が変です。はるか見渡すかぎり、人の影も見えず、荊州の城を望めば、まるで葬式のように、二旒の白旗がしょんぼりなびいているだけなんです」
周瑜は、聞くや否、
「孔明も、馬鹿ではない。或いは、こっちの肚を察して、いち早く、城を明けて逃げ出したのかも知れない」
周瑜が八、九分まで信じていたものは、そういう見解だった。ところが城門へ来て、門を開けよと呼ばわると、中から、
「何者だっ」と、案外、気の強い声がした。
大音に叱り返すと、とたんに城頭の白旗がばたんと仆れた。そしてたちまち、それに代って炎のような紅の旗が高々と揚げられ、
「周都督、何しに来たか」
と、いう者がある。
仰いで天を見ると、櫓の上に、一人の大将の姿が小さく見えた。
「知らず!」と、噛んで吐き出すように、趙雲は下をのぞいていった。
と、槍を頭上にかざして、今にも投げ落そうとする姿勢を示した。
周瑜は愕いて、馬を引っ返した。城下の町角から「令」の一字を書いた旗を背にした一騎が近寄って来て、
「いよいよ、怪しいことばかりです。いま諸方の巡警からしらせて来たところによると、関羽は江陵より攻め来り、張飛は柹帰より攻め来り、また、黄忠は公安の山陰から現れ、魏延は孱陵の横道から殺到しつつあるということです。兵数そのほか、事態はまだよく分りませんが、なにしろ喊の声は、遠近にひびき、さながら四方五十余里まるで敵に埋ったかのような空気で――そこらの部落や下民どもまで、口々に玄徳、孔明の叫びを真似て――呉客周瑜を生捕りにしろ、周瑜をころせ――と喚き伝えているそうです」
「ううむっ……」
がばと、周瑜は、馬のたてがみに、うっ伏してしまった。
せっかく癒りかけていた金瘡ことごとくやぶれて、ぱっと、血を吐いたかと思うと、そのままくたっと、馬の背から落ちてしまった。
諸将は、仰天して、周瑜の身をかかえ、辛くも救命薬を与えて蘇生させた。ところへまた、物見が来て、
と、告げたので、周瑜はいよいよ歯がみをして、無念の拳をにぎりしめた。
五
周瑜の侍医や近侍たちは、こもごもになだめて、安臥をすすめた。
「怒気をお抱き遊ばすほど、破傷のご苦痛は増すばかりです。なにとぞお心をしずめて、静かに、しばしご養生を」
大軍を率いて遠く溯江し、上陸第一日にこの凶事だったから、諸人の気落ちと狼狽は無理もなかった。
「会いたい」
というので、早速、馬をとばして迎えにやると、孫瑜はすぐ駈けつけて、こう慰めた。
「都督、余りじりじりせぬがよい。予がこれへ来たからには、万事、呉侯に代って指揮いたすゆえ、御身はしばらく船中へ退いて、何よりも身の養生に努めるがいい」
しかし、周瑜はなお、身の苦痛など口にも出さない。火の如き憤念を吐いて、
血涙をたたえて云った。
「周瑜来らば――」と、虎を狩るように、厳しく陣をめぐらしているとある。
周瑜は聞くと、輿の中で、身をもがいて叫んだ。
「降ろせっ。輿の中よりわしを出せ。猪口才な孔明の手先、蹴ちらして通る」
その文にいう。
亮思エラク、不可ナリ。益州(蜀)民ハ強クシテ地ハ険。
抑、天下如何ナル愚人ゾ。曹操ガ赤壁ノ大敗ヲ見テ、亦、ソノ愚轍ヲアエテ趁ワントスルトハ。今、天下三分シ、操ハソノ二分ヲ占メ、ナオ、馬ヲ蒼海ニ水飼イ呉会ニ兵ヲ観ンコトヲ望ム。時呉兵ヲシテ遠伐ニ赴カシメ、自ラ守ルヲ虚シュウスルハ長計ニ非ザル也。操ガ兵一度至ラバ、江南粉滅サレ尽サン。
坐シテ視ルニ忍ビズ、ココニ告グ。幸イニ照覧ヲ垂レヨ。
読み下してゆくうちに、周瑜は恨気胸にふさがり、手はわななき、顔色も壁土のようになってしまった。
「ううむっ……」と、太く、苦しげに、長嘆一声すると、急に、
「筆、筆、筆。……紙を。硯を」
と、さけび、引ったくるように持つと、必死の形相をしながら、なにか懸命に書き出した。文字はみだれ、墨は散り、文は綿々と長かったが、遂に書き終るや否、筆を投げて、
云い終ると、昏絶して、一たん眼を閉じたが、ふたたびくわっと見ひらいて、
忽然、うす黒い瞼を落し、まだ三十六歳の若い寿に終りを告げた。時、建安十五年の冬十二月三日であったという。