烽火台
一
瑾の使いは失敗に帰した。ほうほうの態で呉へ帰り、ありのままを孫権に復命した。
「推参なる長髯獣め。われに荊州を奪るの力なしと見くびったか」
参謀の歩隲がその議場で反対をのべた。
然りとする者、否とする者、議場は喧騒した。隠忍久しき呉も、いまや自信満々である。諸将の面上には、かつてのこの国には見られなかった覇気闘志がみなぎっている。
歩隲はかさねて云った。
「反対に、魏の兵馬を、呉の用に供せしめてこそ、上策と申すべきに、さる深慮もめぐらさず、ただひしめいて手ずから荊州を奪らんとするなど、一州を奪るにもどれほどな兵力と軍需を消耗するものか、国力の冗費を思わぬものだ」
すると、主戦的な人々は、声をそろえて、
「そんな巧いわけにゆくものか。犠牲なくして、国運の進展なし。また、国防なし」
と、あちこちで呶号した。
歩隲は、衆口を睥睨して、
「まず黙って聞き給え。いま曹操の弟曹仁は、襄陽から樊川地方に陣取っている。これ、隙あらば荊州に入らんと、機をうかがっているものであるが、彼もさるもの、まず呉に戦わせ、その後、好餌を喰らわんと、唾をのんでひかえておる。――で、呉は今こそ、かねて懸案の対魏方策を一決して、彼の望みどおり同盟の好誼をむすび、その代りに、直ちに、曹仁の軍勢をもって荊州へ攻め入ることを条件とするならば、魏も否やをいう口実なく、われらの思い通りな形勢に導くことになろうではないか」と、万丈の気を吐いた。
「できたできた。これでもう声も漏れないし、なんでも噛める」
そういいながら、彼は用の終った歯医者を捨てて、大股に礼賓閣へ歩み、呉使を引見して、すぐ条約の文書に調印を与えたのであった。
要するに、曹操の肚では、何よりも玄徳と孫権との提携をおそれていたのである。いまその蜀呉合作を未然に打破して、蜀を孤立させただけでも、大いなる成功であるとなし、呉の附帯条件も、文句なしに容れたものと思われる。
蜀はこの間に、もっぱら内治と対外的な防禦に専念し、漢中王玄徳は、成都に宮室を造営し、百官の職制を立て、成都から白水(四川省広元県西北。蜀の北境)まで四百余里という道中の次々には駅舎を設け、官の糧倉を建て、商工業の振興と交通の便を促進するなど、着々その実をあげていた。
「関羽がおります。ご心配には及びますまい」
漢中王の驚愕をなだめて、彼は常とかわりなく、沈着にその事を処置した。
二
費詩はまた言を重ねて、
「ついてはこの機に、閣下をも、五虎大将軍の一人に列せられました。ありがたく印綬をおうけ下さい」と、いった。
関羽は例の朴訥な気性からむっとした容子で、
「五虎大将軍とは何ですか」
「王制の下に、新たに加えられた名誉の職です。つまり蜀の最高軍政官とでも申しましょうか」
「誰と誰とがそれに任ぜられたのか」
「ははは。児戯にひとしい」と関羽は満心の不平を笑いにまぎらせて云った。
「羽将軍には、ご不満らしいが、五虎大将軍の職制は、要するに、王佐の藩屏として、国家の必要上設けられたものであって、漢中王とあなたとの情義や信任の度をあらわしたものではありません。おそらくあなたは、むかし桃園に義をむすんだ劉玄徳という人を思い出して、自分と黄忠などを同視するのかと、ふと淋しい気がしたのでしょうが、それは大いなる国家の職制とわたくしの交情とを、混同されたお考えとぞんじますが」
関羽は急に費詩の前に拝伏して慚愧した。
――然り、然り、もし足下のあきらかな忠言を聞くのでなかったら、自分はここにおいて、君臣の道のうえに、ついに取返しのつかぬ過誤を抱いてしまったであろう――と。
即ち、彼は卒然と、自分の小心を恥じて、その印綬をうけ、涕涙再拝して、
「小弟の愚かな放言をおゆるしください」と、はるか成都のほうへ向って詫びた。
荊州城の内外には、一夜のうちに彼の麾下なる駿足が集まった。関羽の令が常に厳としてよく守られていることがわかる。関羽は将台に登って、今や樊川の曹仁が、駸々と堺に迫りつつある事態を告げ、出でてこれを迎撃し、さらに敵の牙城樊川を奪り、もって、蜀漢の前衛基地としてこの荊州を万代の泰きにおかねばならないと演説した。
彼の将士は、万雷のような拍手をもってそれに答え、各〻の出陣に歓呼した。
満城、その夜は篝を焚き、未明の発向というので、腰に兵粮をつけ馬にも飼葉を与え、陣々には少量の門出酒も配られて、東雲の空を待っていた。
「……あっ」
と、愕きざま、抜き打ちに猪を斬ったかと思うと――眼がさめていた。夢だったのである。
「どうなさいました」
「人間五十に達すれば、吉夢もなし、凶夢もなし。ただ清節と死所にたいして、いささか煩悩を余すのみ」と、いって笑った。
三
曹仁の大兵は、怒濤となって、すでに襄陽へ突入したが、
という情報に、にわかにたじろいで、襄陽平野の西北に物々しく布陣して敵を待っていた。
で、たちまち関羽軍は、襄陽郊外に来て、彼と対陣した。
一鼓一進、たがいに寄って、歩兵戦は開始され、やがてやや乱軍の相を呈してきた頃、廖化は偽って、敗走しだした。
その頃、夏侯存と戦っていた関平もくずれ立ち、荊州軍は全面的な敗色につつまれたかに見えたが、やがて二十里も追われてきた頃、こんどは逆に、追撃また追撃と狂奔してきた曹仁や夏侯存などの魏軍が、突然、乱脈にさわぎ始めて、
「どこだ、どこだ?」
「あの鼓は。喊声は?」と、前の敵はおいて、うしろの埃に惑い合った。
濛々たる塵煙の中に、味方ならぬ旗さし物や人馬が見えだした。わけて鮮やかなのは「帥」の一字をしるした関羽の中軍旗であった。
「すわ、退路を断たれるぞ」
あわてて引っ返してゆく大将曹仁のまえに、さながら火焔のような尾を振り流した赤毛の駿馬が、莫と、砂塵を蹴って横ぎった。
「――あっ、関羽」
「やよ、魏王の弟。あまりあわてて馬より落ちるな。きょうはあえて汝を追うまい。悠々逃げよ」
と、手の青龍刀を遊ばせながら高々と笑った。
(序戦はまず敵の胆を挫げば足る)という程度に、長追いもせず、悪戦もせず、ただ退路を失って四方に潰乱した敵を、手頃に捉えては潰滅を加えた。
で、荊州軍としては、ほとんど、損害という程度の兵も失わず、しかも敵に与えた損害と、心理的影響とは、相当大きなものだった。
第二日、第三日も曹仁は、不利な戦ばかり続け、ついに襄陽市中からも撤退のやむなきにいたり、襄陽を越えて遠く退いてしまった。
関羽軍は、襄陽に入った。
城下の民衆は、旗をかかげ、道を掃き、酒食を献じたりして、
「羽将軍来る、羽将軍来る」と、慈父を迎えるような歓迎ぶりを示した。
「幸いに、大捷を博しました。けれどこの勝利に酔っては危険です。いくら魏に打ち捷ってもです。――なぜならば呉というものがありますからな。按ずるに、いま陸口(湖北省、漢口の上流)には、呉の呂蒙が大将となって、一軍団を屯させています。これが虚を見て、うしろから荊州へ出動してくると、ちょっと防ぐ術はありません」
「よく気づいた。自分の憂いも実はそこにある。陸口に変あらばたちまちそれを知るような工夫はなかろうか」
「要所要所に烽火台を築いて、いわゆるつなぎ烽火の備えをしておくに限ります」
「ご辺に命じる。奉行となって、すぐその築工に取りかかれ」
「承知しました」
王甫はまず設計図を示してから関羽の工夫も取りいれ、急速にその実現を計った。
四
王甫はいちど荊州へ帰って、人夫工人を集め、地形を視察したうえ、烽火台工築に着手した。
烽火台は一箇所や二箇所ではない。陸口の呉軍に備えるためであるから、そこの動静を遠望できる地点から、江岸十里二十里おきに、適当な阜や山地をえらび、そこに見張り所を建て、兵五、六十ずつ昼夜交代に詰めさせておくのである。
そして、ひとたび、呉のうごきに、何か異変があると見るや、まず第一の監視所の阜から烽火を揚げる――夜ならば曳光弾を揚げる――第二の監視所はそれを知るやまたすぐ同様に打ち揚げる。
第三、第四、第五、第六――というふうに、一瞬のまにその烽火が次々の空へと走り移って、数百里の遠くの異変も、わずかなうちにそれを本城で知り得るという仕組なのである。
この「つなぎ烽火」の制は、日本の戦国時代にも用いられていたらしい。年々やまぬ越後上杉の進出に備えて、善光寺平野から甲府までのあいだを、その烽火電報によって、短時間のまに急報をうけ取っていたという川中島戦下の武田家の兵制などは、その尤なる一例であったということができる。
「着々、工事は進んでいます。――あとは人の問題ですが」
王甫はやがて襄陽へ戻ってきて、関羽に告げた。
「江陵方面の守備は、糜芳、傅士仁のふたりですが、ちと、如何と案じられます。荊州の留守をしている潘濬も、とかく政事にわたくしの依怙が多く、貪欲だといううわさもあって、おもしろくありません。烽火台はできてもそれを司る人に人物を得なければ、かえって平時の油断を招き、不時の禍いを招く因とならぬ限りではありませんからな」
「……うむ。……人は大事だが」
「まず、後の憂いもない」
として、彼は、襄陽滞陣中に、充分英気を養った士卒をして、襄江の渡河を決行させた。
もちろんこの間に、船筏の用意そのほか、充分な用意はしてある。――当然、この渡河中には、手具脛ひいている敵の猛烈な強襲があるものと覚悟して。
ところが、大軍は難なく、舟航をすすめ、何の抵抗もうけず、続々、対岸へ上陸してしまった。
ここでも、樊城の魏軍は、その内部的な不一致を、暴露している。
すでに荊州軍が、歴然と、渡河の支度をしているのを眺めながらも、
「どうしたらよいか」と、参謀の満寵に、ひたすら策を求めているような有様だったのである。
「城を堅固に、守るが第一です。出て戦っては、勝ち目はありません」と、いった。
ところが、城中一方の大将たる呂常などの考えは、まったくそれと背馳していた。城に籠るは最後のことだ。まして、軍書にも明らかに、
――敵、半バヲ渡ルトキハ、即チ討ツ。
と用兵の機微を教えてある。そこをつかまないで、どこをつかむか。機微の妙を知らないような大将と共に城を同じゅうするとは、何たる武運の尽きか、と痛嘆した。
前の夜、その激論に暮れてしまった。翌る朝には、もう関羽の旗が、こちらの岸へのぼっていた。
呂常はなお自説を曲げず、
「このうえは、われ一人でも出て戦ってみせる」
「あれが有名な長髯公か」
と、戦いもせず、彼をおいて、われ先にみな城門のうちへ逃げこんでしまうといったような有様だった。