一掴三城
一
「いずれ周瑜が自身で答礼に参るといっておりました」と、話した。
「これほどな儀礼に、周瑜が自身で答礼に来るというのはおかしい。何のために来るのであろう」
「もちろん、南郡の城が気にかかるので、こちらの動静を見に来るのでしょう」
「もし兵を率いて来たらどうしようか」
「ご心配はありません。まずこんどは探りだけのことでしょう。ご対談のときには、かようにお答え遊ばされい」
孔明は、何事かささやいた。
「案外、馬鹿にはならぬ兵力を持っておるな」
といわんばかりな流し目をくばりながら、趙雲の一隊に迎えられて、陣の轅門へ入って行った。
酒、数巡。
「ときに、引続いて、江北へご進撃と承り、いささか戦いのお手助けを申さんと、急遽、この油江口まで陣を進めて来ましたが、もし周都督のほうで、南郡をお取りになるご意志がなければ、玄徳の手をもって、攻め取りますが」と、軽くいった。
すると、周瑜も、気軽に笑って、戯れた。
周瑜は、眉のあいだに、憤然と憤炎をあらわしたが、すぐ皮肉な嘲笑にそれを代えて、
「もし、それがしの手に奪れなかったら、あなたの手で奪ったらよかろう」
「大丈夫の一言、何の、証人などが要ろう」
「あとでご後悔はありますまいな」
「ばかな」
周瑜は、一杯を干して、また一笑した。
「さすがに、周都督の一言は、呉の大国たる貫禄を示すに余りある公論というものです。荊州の地は、当然まず呉軍からお攻めあるのがほんとです。そして万が一にも、呉の手にあまったときは、劉皇叔が試みにそれを攻め取ってみられるがよいでしょう」
周瑜らが帰った後である。
「――周瑜と対談の時は、ああ云え、こう答えよと、先生がこの玄徳に教えたので、予はその通りに応対していた。それなのに、先生自身、周瑜に向って、南郡を取れといわんばかり励まして帰したのは一体どういうつもりか」
「その以前、私が荊州をお取りなさいと、あんなにおすすめ申したのに、君にはさらに耳へお入れがなかった」
「わが一族、わが味方、拠るに地もなく、ほとんど今は孤窮の境界。むかしを問うてくれるな。事情も変っている」
二
魯粛がその間に云った。
「それは君、ことばの上だけのものさ。人情の余韻を残すというものだ。すでに赤壁においてすらあの大捷を博した我軍のまえに、南郡の城のごときは鎧袖一触、あんなものを取るのは手を反すよりやさしいことじゃないか」
「出るな。守れ」
の一方でただ要害をきびしくするに汲々としていたが、部下の牛金はしきりに勧めた。
「要害の守りというものは或る期間だけのものです。古来、陥ちない城というものはない。いますでに呉軍が城下に迫っているのに、城を出てこれを撃つという変もなければ、城中の士気は、消極的になるばかりで、所詮、長く持てるものではありません」
「それも一理ある」
曹仁は、牛金の乞いを容れて、兵五百をさずけ、機を計って奇襲を命じた。
「戦況いかに?」と、城中の櫓から眺めていた曹仁は、牛金の危急を見て、自身手勢を率いて、救いに出ようとした。
すると、長史陳矯が、
「丞相がこの城を託して都へ帰らるる時、何と宣われましたか」
と、口を極めて、軽率な戦いを諫めた。
だが、曹仁は、
「牛金は大事な大将だし、部下五百は、城中で重きをなす精鋭ばかりだ。それを見殺しにするは、この城の自殺にひとしい」とばかり、耳もかさず、馬に打乗り、屈強な兵千余を率いて、城外へ渦まき出たので、陳矯もやむなく櫓へ駈けのぼり、太鼓を打って勢いを添えた。
かくて、曹仁は、呉軍の真只中へ馳け入って、まず徐盛の一角を蹴破り、牛金と合流して、首尾よく彼を救い出した。
けれどまだ、あと五、六十騎の者が、重囲の中に残されているのを知ると、
「よしっ、もう一度行って来る」
と、ふたたび馳け入り、あとの者をも一人もあまさず救出して帰ってきた。
すると、呉の先鋒の大将蒋欽が、道をさえぎって、曹仁を討ち止めようと試みた。けれど曹仁の勇は、それらの阻害を物ともせず、四角八面に奮戦し、また牛金もそれを助け、城中からも曹仁の弟の曹純が加勢に出て、むらがる敵へ当ったので、ついに、その日は首尾よく、目的を達して、
「曹仁ここにあり」
の重きを敵へ知らしめた。
で、城中では、その夜、
「まず、合戦の幸先はいいぞ」
と、大いに勝ち戦を賀して、杯をあげていたが、それに反して、序戦に敗れた呉軍の営内では、
「敵に数倍する勢を擁しながら、しかも城中から出てきた兵に不意を衝かれるとは何たる醜態だ」
と、蒋欽、徐盛のともがらは、都督周瑜の面前で、その責めを問われ、さんざん痛罵されていた。
三
「この上は、自身、南郡の城を一もみに踏みつぶしてみせる」
周瑜は、怒った後で、こう豪語した。
ここ連戦連勝の勢いに誇っていたところなので、蒋欽の些細な一敗も、彼にはひどくケチがついたような気がしたものとみえる。
「ご自身、軽々しい戦いはまずなさらぬほうがよいでしょう」
諫めたのは、甘寧である。
甘寧は、説いた。
「南郡と掎角の形勢を作って、一方、夷陵の城も戦備をかためています。そしてそこには、曹仁と呼応して、曹洪がたて籠っていますから、うかつに南郡だけを目がけていると、いつ如何なる変を起して、側面を衝いてくるかもしれません」
「――では、どうしたがいいか」
「それがしが三千騎を拝借して、夷陵の城を攻め破りましょう」
「よし。そのまに、南郡の城は、わが手に片づける」
手配はなった。
と、陳矯に、急場の処置を諮ったところ、
「力によらず、謀略を主として、敵を欺こうではないか」と、一計を約束した。
甘寧は、それとも知らず、前進また前進をつづけ、敗走する城兵を追い込んで、
「意外にもろいぞ」
と、一挙、占領にかかった。
曹洪も出て奮戦したが、実は、策なので、たちまち支え難しと見せかけて、城を捨てて逃げた。
日暮れに迫って、甘寧の軍勢は、残らず城内へなだれ入り、凱歌をあげて、誇っていたが、なんぞ測らん、曹純、牛金の後詰が、諸門を包囲し、また曹洪も引っ返してきて、勝手を知った間道から糧道まで、すべて外部から遮断してしまったので、寄手の甘寧と曹純はまったく位置をかえて、孤城の中に封じこまれてしまった。
この報らせが、呉軍に聞えたので、周瑜は重ね重ね眉をしかめ、
「程普。何か策はないか」と、評議に集まった面々を見まわした。
程普はいう。
呂蒙がそれにつづいて、こう意見を吐いた。
周瑜はうなずいて、さらに、
「凌統。大丈夫か」と、念を押した。
凌統は、ひきうけたが、
「――ただし、十日間がせいぜいです。十日は必ず頑張ってご覧に入れますが、それ以上日数がかかると、それがしはここで討死のほかなきに至るかもしれません」と、いった。
「そんなに日のかかるほどな敵でもあるまい」
四
途中で、呂蒙が献策した。
「これから攻めに参る夷陵の南には、狭くけわしい道があります。附近の谷へ五百ほどの兵を伏せ、柴薪を積んで道をさえぎり置けば、きっと後でものをいうと思いますが」
周瑜は、容れて、
「その計もよからん」と、手筈をいいつけ、さらに、前進して夷陵へ近づいた。
「それがしが参らん」と、周泰がすすんでこの難役を買って出た。
彼は、陣中第一の駿足を選んでそれにまたがり、一鞭を加えて、敵の包囲圏へ駈けこんで行った。
ただ一騎、弾丸のように駈けてきた人間を、曹洪、曹純の部下はまさか敵とも思えなかった。ただ近づくや否、
「何者だっ」
「待てっ待てっ」と、さえぎった。
周泰は、刀を抜いて剣舞するようにこれを馬上でまわしながら、
「遠く都から来た急使だ。曹丞相の命を帯ぶる早馬なり、貴様たちの知ったことじゃないっ。近づいて蹴殺されるな」と、喚き喚き、疾走して行った。
その勢いで、二段三段と敵陣を駈け抜けてしまい、遂に、夷陵の城下へ来て、
「甘寧、城門を開けてくれ」と、どなった。
「もう大丈夫。安心しろ。周都督がご自身で救いに来られた。そして作戦はこう……」
と、一切をしめし合い、ここに完全な聯絡をとった。
きのう、おかしな男が、ただ一騎、城中へ入ったというし、それから俄然城兵の士気があがっているのを眺めて、寄手の曹洪、曹純は、
「これはいかん」と、顔見あわせた。
「周瑜の援軍が近づいた証拠だ。ぐずぐずしておれば挟撃を喰う。どうしよう?」
「どうしようといっても急には城も陥ちまい。甘寧をわざと城へ誘いこんで袋叩きにするという策は、名案に似て、実は下の下策だったな、こうなってみると」
「ともかくも一両日、頑張ってみよう」
何ぞ無策なると心ある者なら歯がゆく思ったにちがいない。すぐ次の日にはもう周瑜の大軍がここへ殺到した。曹洪、曹純、牛金などあわてふためいて戦ったものの、もとより敵ではなかった。陣を崩してたちまち敗走の醜態を見せてしまう。
のみならず、周瑜の急追をよけて、山越えに出たはいいが、途中のけわしい細道までかかると、道に積んである柴や薪に足をとられ、馬から谷へ落ちる者や、自ら馬をすてて逃げ出すところを討たれるやらで、さんざんな態になってしまった。
呉の軍勢は、勝ちに乗って、途中、敵の馬を鹵獲すること三百余頭、さらに進撃をつづけて、遂に南郡城外十里まで迫って来た。
「やはり丞相のおことばを守って、絶対に城を出ずに、最初からただ城門を閉じて守備第一にしておればよかった」という及ばぬ愚痴だった。
「そうだ! 忘れていた」
曹仁は、その愚痴からふと思い出したように、膝を打った。それは曹操が都へ帰る時、いよいよの危急となったら封を開いてみよ、といってのこして行った一巻の中である。その中にどんな秘策がしたためてあるかの希望であった。
五
「……はてな? 敵の兵はみな逃げ支度だぞ。腰に兵糧をつけておる」
城外に高い井楼を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こうつぶやきながらなお、眉に手をかざしていた。
「さては、敵将の曹仁も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。――よし。さもあらばただ一撃に」と、周瑜は、みずから先手の兵を率い、後陣を程普に命じて、城中へ突撃した。
すると一騎、むらがる城兵の中から躍り出て、
周瑜は、一笑を与えたのみで、
「心得て候う」と、陣線を越えて、彼方へ馬を向けて行ったのは呉の韓当であった。
人交ぜもせず、二人は戦った。交戟三十余合、曹洪はかなわじとばかり引きしりぞく。
するとすぐ、それに代って、曹仁が馬を駈け出し、大音をあげて、
「気怯れたか周瑜、こころよく出て、一戦を交えよ」と、呼ばわった。
喊鼓、天をつつみ、奔煙、地を捲いて、
「今なるぞ。この期をはずすな」
と、周瑜の猛声は、味方の潮を率いてまっ先に突き進んでゆく。
すでに周瑜は城門の下まで来ていた。見まわすところ、ここのみか城の四門はまるで開け放しだ。――いかに敵が狼狽して内を虚にしていたかを物語るように。
「それっ、城頭へ駈け上って、呉の旗を立てろ」と、もう占領したものと思いこんでいた周瑜は、うしろにいる旗手を叱咤しながら、自身も城門の中へ駈けこんだ。
すると、門楼の上からその様子をうかがっていた長史陳矯が、
「ああ、まさにわが計略は図にあたった。――曹丞相が書きのこされた巻中の秘計は神に通ずるものであった!」と、感嘆の声を放ちながら、かたわらの狼煙筒へ火を落すと、轟音一声、門楼の宙天に黄いろい煙の傘がひらいた。
とたんに、あたりの墻壁の上から弩弓、石鉄砲の雨がいちどに周瑜を目がけて降りそそいで来た。周瑜は仰天して、駒を引っ返そうとしたが、あとから盲目的に突入してきた味方にもまれ、うろうろしているうちに、足下の大地が一丈も陥没した。
陥し穽であったのだ。上を下へとうごめく将士は、坑から這い上がるところを、殲滅的に打ち殺される。周瑜は、からくも馬を拾って、飛び乗るや否、門外へ逃げ出したが、一閃の矢うなりが、彼を追うかと見るまに、グサと左の肩に立った。
六
壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。
「退鉦っ。退鉦をっ」と、程普はあわてて、総退却を命じていた。
そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、
「何よりは、都督のお生命こそ……」
と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜の矢瘡を手当させた。
「ああ、これはご苦痛でしょう。鏃は左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」
医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、
「鑿と木槌をよこせ」と、いった。
程普が驚いて、
「こらこら、何をするのだ」と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口を指さして、
「ごらんなさい。素人が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手で、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。
「ううむ、そうか」
と、ぜひなく唾をのんで見ていると、医者は鑿と槌をもって、かんかんと骨を鑿りはじめた。
「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」
「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」
と、その間も、こんこん木槌を振っていた。
荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに癒え、周瑜はたちまち病床から出たがった。
「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ鏃には毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」
城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たびたびここへ襲せて来ては、
「どうした呉の輩。この陣中に人はないのか。中軍は空家か。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」と、さんざんに悪口を吐きちらした。
けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
「あの喊の声はなんだ」と、訊ねた。
程普が、答えて、
「味方の調練です」というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
「鎧を出せ。剣をよこせ」と、罵った。そして、「大丈夫たる者が、国を出てきたからには屍を馬の革につつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」
と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。
七
まだ癒えきらない後ろ傷の身に鎧甲を着けて、周瑜は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきいて陣外へ出て行った。
それを見た曹仁の兵は、
「やッ周瑜はまだ生きていたぞ」と、大いに怖れて動揺した。
曹仁も、手をかざして、戦場を眺めていたが、
「なるほど、たしかに周瑜にちがいないが、まだ金瘡は癒っておるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するという。一同して彼を罵り辱めよ」と、軍卒どもへ命令した。
そこで、曹仁自身も先に立ち、
「周瑜孺子。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。矛は持てるや」
などと嘲弄した。
彼の将士も、その尾について、さんざん悪口を吐きちらすと、たちまち、怒面を朱泥のようにして、周瑜は、
「誰かある、曹仁匹夫の首を引き抜け」
と叫び、自身も馬首を奮い立てて進まんとした。
「潘璋これにあり。いでそれがしが」
それと見て、敵の曹仁は、
「ざまを見よ。彼奴、血を吐いて死したり」と、一斉に斬り入ってきた。
呉軍は色を失って、総くずれとなり、周瑜の身を拾って、陣門へ逃げこんだ。この日の敗北もまた惨たるものであった。
憂色深き中に周瑜は取巻かれていた。だが、彼は案外、元気な容子で、医者のすすめる薬湯など飲みながら、味方の諸将へ話しかけて、
「きょう馬から落ちたのは、わざとしたので、金瘡が破れたのではない。曹仁が漫罵の計を逆用して、急に血を吐いた真似をして見せたのだ。さっそく陣々に喪旗を立て、弔歌を奏でて、周瑜死せりと噂するがいい」と、いった。
次の日の夕方ごろ、曹仁の部下が城外で、呉兵の一将隊を捕虜にして来た。訊問してみると彼らは、
「昨夜ついに、呉の大都督周瑜は、金瘡の再発から大熱を起して陣歿されました。で、呉軍は急に本国へ引揚げることに内々きまったようですから、所詮、呉に勝ち目はありません。勝ち目のない軍について帰っても、雑兵は、いつまで雑兵で終るしかありませんから、一同談合して降参に来たわけです。もしわれわれをお用い下さるなら、今夜、呉陣へ案内いたします。喪に服して意気銷沈している所へ押襲せれば、残る呉軍を殲滅し得ることは疑いもありませぬ」
ところが、陣中は、旗ばかり立っていて、人影もなかった。寥々として、捨て篝が所々に燃え残っている。
「さては早、ここを払って、引揚げたか?」
と疑っていると、たちまち、東門から韓当、蒋欽、西門から周泰、潘璋。南の門からは徐盛、丁奉。北の柵門からも陳武、呂蒙などという呉将の名だたる手勢手勢が、喊を作り、銅鑼をたたき、一度に取籠めて猛撃して来たため、空陣の袋に入っていた曹仁以下の兵は、度を失い、さわぎ立って、蜂の巣のごとく叩かれたあげく、士卒の大半を討たれて、八方へ潰乱した。
死せる周瑜は生きていた。この夜、周瑜は十分に勝ちぬいて、意気すこぶる旺に、程普をつれて、乱軍の中を縦横し、いでこの上は南郡の城に、呉の征旗を高々と掲げんものと、壕の辺まで進んでくると、こは抑いかに、城壁の上には、見馴れない旗や幟が、夜明けの空に、翩翻と立ちならんでいる。
そしてそこの高櫓の上には、ひとりの武将が突っ立って、厳に城下を見下していた。
八
怪しんで、周瑜が、
「城頭に立つは、何者か」と、壕ぎわから大音にいうと、先も大音に、
「即刻、襄陽を奪い取れ」と、命じた。
――われ、孔明に出しぬかれたり!
ところが、たちまち、早馬が来て、
「げッ、何として?」と疑っているところへ、またまた、襄陽からも早馬が飛んで来て、
(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。
周瑜の驚きかたは、ひと通りや二通りではない。失神せんばかり面色を変えて、
程普が、首を垂れていった。
聞くや否、周瑜は、
「――あっ」と床に仆れた。
怒気を発したため、金瘡の口が破れたのだった。こんどは計ではない。ほんとに再発したものである。
だが、人々の看護によって、ようやく蘇生の色をとりもどすと、周瑜はなお牙を噛んで、
「いかがです。ご気分は」と、見舞った。
周瑜はもう寝てなどいなかった。意気軒昂を示して、
「無用です、無用無用」と、首を振った。
九
魯粛はいう。
「いま、曹操と戦って赤壁に大捷を得たといっても、まだ曹操そのものは仆しておりません。成敗の分れ目はこれからです。一面に、呉君孫権には、先頃からまた、合淝方面を攻めておらるる由。――そんな態勢をもって、ここでまたも、玄徳と戦端を開いたら、これは曹操にとって、もっとも乗ずべき機会となりましょう」
周瑜にも、その不利は、当然分っていたが、彼のやみ難い感情が、頑として、いうのであった。
「ごもっともです。それがしが玄徳に対面して、篤と、道理を説いてみましょう」
「呉の粛公。何しに見えられたか」
「備公にお目にかからんがために」
ぜひなく、彼はその足で、荊州へ急いだ。
「やあ、お久しゅうございました」
「曹軍百万の南征で、第一に擒人となるものは、おそらくあなたのご主君備公であったろうと思う。それをわが呉の国が莫大な銭粮を費やし、兵馬大船を動員して、必死に当ったればこそ、彼を撃破し、お互いに難なきを得ました。その戦果として、荊州は当然、呉に属していいものと考えられるが、ご辺はどう思われるか」
孔明は、笑って、
「とは、なぜか」
「荊州の主、劉表は死なれた。しかし遺孤の劉琦――すなわちその嫡子はなおわが劉皇叔のもとに養われている。皇叔と劉琦とは、もとこれ同宗の家系、叔父甥のあいだがら、それを扶けて、この国を復興するに、何の不道理がありましょうや」
魯粛は、ぎくとした。
ここまでの深謀が孔明にあったとは、さすがの彼も気づかなかったからである。
孔明は、左右の従者に向って、
「――賓客には、お疑いとみえる。琦君をこれへ」と、小声で命じた。
やがて後ろの屏風が開くと、弱々しい貴公子が、左右の手を侍臣に取られて、数歩前に歩いて客に立礼した。見ると、まぎれなき劉琦である。
「ご病中なれば、失礼遊ばされよ」
「琦君、一日あれば、一日荊州の主です。あのご病弱ゆえ、もし夭折されるようなご不幸があれば、また別ですが」
「公論、明論。それなら誰も異論を立てるものはありますまい」
それから大いに馳走を出して歓待したが、魯粛は心もそぞろに、帰りを急ぎ、すぐ周癒に会って仔細を話した。
「――長いことはありません。劉琦の血色をみるに、近々、危篤におちいりましょう。ここしばらく」