野に真人あり
一
亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。
審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。
「せめて、故主の城址に、その屍でも葬ってやろう」
冀州の城北に、墳を建て、彼は手厚く祠られた。
当然、落城の直後とて、そこは遮断されている。番の兵卒が、
「待てっ、どこへ行くか。――丞相のご命令だ。まだ何者でも、ここを通ってはならん」
と、さえぎった。
すると曹丕の随臣は、「御曹司のお顔を知らんか」と、あべこべに叱りとばした。
城内はまだ余燼濛々と煙っている。曹丕は万一、残兵でも飛びだしたらと、剣を払って、片手にひっさげながら、物珍しげに、諸所くまなく見て歩いていた。
すると、後堂のほの暗い片隅に、一夫人がその娘らしい者を抱いてすくんでいた。紅の光が眼をかすめた。珠や金釵が泣きふるえているのである。
「――誰だっ?」
曹丕も足をすくめた。
かすかな声で、
と、眸に、憐れを乞うように告げた。
「ああ! これは夜光の珠だ」
「助けてやる! きっと一命は守ってやる! もう慄えなくともいい」と云いわたした。
「いかに阿瞞。もしこの許攸が、黄河で計を授けなかったら、いくら君でも、今日この入城はできなかっただろう」
と、鼻高々、鞭をあげて、いいつけられもしないのに一鼓六足の指揮をした。
曹操は非常に笑って、
「そうだそうだ。君のいう通りである」と、彼の得意をなお煽った。
城門からやがて府門へ通るとき、曹操は何かで知ったとみえ、番兵に詰問した。
「予の前に、ここを通過した者は誰だ! 何奴か!」
番の将士は戦慄して、
「世子でいらせられます」
と、ありのまま答えると、曹操は激色すさまじく、
「むむ、それも一理ある」
と不問に付して馬をおり、階を鳴らして閣内へ通った。
粋な父の丞相は、冀州陣の行賞として、甄氏を彼に賜わった。
二
その時、彼は亡家の墓に焚香しながら、
「むかし洛陽で、共に快談をまじえた頃、袁紹は河北の富強に拠って、大いに南を図らんといい、自分は徒手空拳をもって、天下の新人を糾合し、時代の革新を策さんといい、大いに笑ったこともあったが、それも今は昔語りとなってしまった……」と述懐して涙を流した。
勝者の手向けた一掬の涙は、またよく敵国の人心を収攬した。人民にはその年の年貢をゆるし、旧藩の文官や賢才は余さずこれを自己の陣営に用い、土木農田の復興に力をそそがせた。
府堂の出入りは日ごと頻繁を加えた。一日、許褚は馬に乗って東門から入ろうとした。すると例の許攸がそこに立っていて、
「おい、許褚。ばかに大きな面をして通るじゃないか。はばかりながらかくいう許攸がいなかったら、君らがこの城門を往来する日はなかったのだぜ。おれの姿を見たら礼儀ぐらいして通ったらどうだ」と、広言を吐いた。
「匹夫っ。わきへ寄れ!」
「なに。おれを匹夫だと」
「小人の小功に誇るほど、小耳にうるさいものはない。往来の妨げなすと蹴ころすぞ」
「蹴ころしてみろ」
「造作もないことだ」
まさかとたかをくくっていると、許褚はほんとに馬の蹄をあげて、許攸の上へのしかかってきた。
それのみか、とっさに剣を抜いて、許攸の首を斬り飛ばし、すぐ府堂へ行って、この由を曹操へ訴えた。
曹操は、聞くと、瞑目して、しばらく黙っていたが、
「彼は、馭しがたい小人にはちがいないが、自分とは幼少からの朋友だ。しかもたしかに功はある者。それを私憤にまかせてみだりに斬り殺したのは怪しからん」
と、許褚を叱って、七日の間、謹慎すべしと命じた。
崔琰は乱雑な民簿をよく統計整理して、曹操の軍政経済の資に供えた。
曹操は、それを知って、試みに袁譚を招いた。袁譚は気味悪がって、再三の招きにもかかわらず出向かずにいた。
「急を救い給われ」と、彼の義心を仰いだ。
「まあ、見て見ぬ振りしておいでなさい。他人事よりは、ご自身の国防は大丈夫ですか」
と、注意をうながした。
三
南皮城の八門をとざし、壁上に弩弓を植え並べ、濠には逆茂木を結って、城兵の守りはすこぶる堅かったが、襲せては返し、襲せては返し、昼夜新手を変えて猛攻する曹軍の根気よさに、袁譚は夜も眠られず、心身ともに疲れてしまった。
その上、大将彭安が討たれたので、辛評を使いとして、降伏を申し出た。
曹操は、降使へいった。
「其方は、早くから予に仕えておる辛毘の兄ではないか。予の陣中に留まって、弟と共に勲しを立て、将来、大いに家名をあげたらどうだ」
「古語にいう。――主貴ケレバ臣栄エ、主憂ウル時ハ臣辱メラルと。弟には弟の主君あり、私には私の主君がありますから」
「和議は望めません。所詮、決戦のほかございますまい」
ありのままを、辛評が告げると、袁譚は彼の使いに不満を示して、
「ああそうか。そちの弟は、すでに曹操の身内だからな。その兄を講和の使いにやったのはわしのあやまりだったよ」
と、ひがみッぽく云った。
「こは、心外なおことばを!」
一声、気を激して、恨めしげに叫ぶと、辛評は、地に仆れて昏絶したまま、息が絶えてしまった。
「なんの、彭安が討たれても、なお名を惜しむ大将は数名います。それと南皮の百姓をすべて徴兵し、死物狂いとなって、防ぎ戦えば、敵は極寒の天地にさらされている遠征の窮兵、勝てぬということがあるものですか」と、励まして、大決戦の用意にかかった。
突如、城の全兵力は、四方を開いて攻勢に出てきた。雪にうずもれた曹軍の陣所を猛襲したのである。そして民家を焼き、柵門を焼き立て、あらゆる手段で、曹軍を掻きみだした。
飛雪を浴びて、駆けちがう万騎の蹄、弩弓のうなり、鉄箭のさけび、戛々と鳴る戟、鏘々火を降らしあう剣また剣、槍はくだけ、旗は裂け、人畜一つ喚きの中に、屍は山をなし、血は雪を割って河となした。
曹洪は、雑兵には目もくれず、乱軍を疾駆して、ひたすら袁譚の姿をさがしていたが、とうとう目的の一騎を見つけ、名乗りかけて、馬上のまま、重ね打ちに斬り下げた。
「袁譚の首を挙げたぞ。曹洪、袁譚の首を打ったり」
という声が、飈々、吹雪のように駆けめぐると、城兵はわっと戦意を失って、城門の橋を逃げ争って駆けこんだ。
「あれをこそ!」
と、目をつけ、近々、追いかけて呼びとめたが、雪崩れ打つ敵味方の兵にさえぎられて寄りつけないので、腰の鉄弓をといて、やにわに一矢をつがえ、人波の上からぴゅっと弦を切った。
「郭図亡し、袁譚亡し、城兵ども、何をあてに戦うか」と声かぎりに叫んだ。
四
「これを見て歎く者があれば、その三族を罰すであろう」と、郡県にあまねく布令た。
ところが或る日、布冠をいただいて、黒い喪服を着た一処士が番の兵に捕まって、府堂へ引っ立てられてきた。
「丞相のお布令にもかかわらず、こやつは袁譚の首を拝し、獄門の下で慟哭しておりました」というのである。
人品の常ならぬのを見て、曹操は自身で糺した。
「汝はどこの何者か」
「北海営陵(山東省・濰県)の生れ王修、字を叔治という者です」
「郡県の高札を見ていないのか」
「眼は病んでおりません」
「しからば、自身のみならず、罪三族に及ぶことも承知だろうな」
「歓びを歓び、悲しみを悲しむ、これ人間の自然で、どうにもなりません」
「汝の前身、何していたか」
「わが前で口をはばからぬ奴。小気味のいい云い方だ。しかしその大恩をうけた袁紹となぜ離れていたか」
「諫言をすすめて、主君に容れられず、政務に忠ならんとして、朋人に讒せられ、職を退いて、野に流れ住むこと三年になるが、何とて、故主の恩を忘れ得ましょうや。いま国亡んで、嫡子の御首を市に見、哭くまいとしても、哭かずにはいられません。――もしこの上、あの首を私に賜わり、篤く葬ることをお許し下さるなら、身の一命はおろか、三族を罪せられようとも、お恨みはつかまつりません」
王修ははばかる色なくそういった。
どんなに怒るかと思いのほか、曹操は堂中の諸士をかえりみて、嘆久しゅうした。
即ち、彼は王修の乞いを許し、その上、司金中郎将に封じて、上賓の礼を与えた。
すると、わずか数十騎をつれた二人の大将が、城門まぢかまで来て、
「高君、高君。開け給え」と、救いを呼んでいた。
高幹が櫓から見おろすと、旧友の呂曠と呂翔だった。
ふたりが大声でいうには、
高幹は、なお疑って、兵は門外にとどめ、二人だけを城中に迎え入れた。
浅慮にも、高幹は、二人の策に乗ってしまった。堅城壺関も、その夜ついに陥落し、高幹は命からがら北狄の境をこえて、胡の左賢王を頼って行ったが、途中家来の者に刺し殺されてしまった。