健啖天下一
一
まず、閣下の健勝を祝します。
次には、
ただ、お詫びせねばならぬ一事は、不肖、守護の任にある許都の地も、何かと事繁く、秩序の維持上、兵を要しますので、折角ながら兵員をお貸しする儀だけは、ご希望にそうことができません。なお、
勅命に依って、
貴下を、大将軍太尉にすすめ、併せて冀、青、幽、并の四州の大侯に封ずとのお旨であります。ご領受あらんことを。
「いや、曹操の返辞も、どうかと思っていたが、この文面、このたびの扱い、万端、至れり尽せりである。彼も存外、誠実な漢とみゆる」
袁紹は安心した。
そこで大挙、北平攻略への軍事行動を開始し、しばらく西南の注意を怠っていた。
× × ×
それが、呂布の近状であった。
「陳珪父子の者を、ご信用になるも結構ですが、あまり心腹の大事まで彼らにお諮りあるのは如何かと思われます。――言葉の色よく媚言巧みに、彼らが君を甘やかしている態度は、まるで幇間ではありませんか」
「そんなわけではありません」
「ではなぜ、おれに讒言して、賢人をしりぞけようとするか」
「彼ら父子を、真実、賢人だと思っていらっしゃるのですか」
「――ああ」
「何がああだ、人の寵をそねむものと、貴様こそ、諂佞の誹をうけるぞ」
「もう何も申しあげる力もございません」
陳宮は、退いた、忠ならんとすれば、却って諂佞の臣と主人の口からまでいわれる。
「そうだ。狩猟にでも行って、浩然の気を養おう」
一僕を連れて、彼は秋の山野を狩り歩いた。
すると、一人の怪しげな男を認めた。旅姿をしたその男は陳宮の顔を見ると、あわてて逃げだした。
「……はてな?」
やり過してから、陳宮は小首を傾けていたが、何思ったか、にわかに弓に矢をつがえて、馳けてゆく先の男へ狙いすました。
二
矢は狙いあやまたず、旅人の脚を射止めた。
猟犬のように、下僕の童子はそれへ飛びかかってゆく。
「はい……」
「いえ、それはもう、先へ行った伝馬の者がたずさえてゆきましたから手前は持っておりません」
「偽りを申せ」
「嘘ではございません」
「きっとか」
陳宮が、剣に手をかけると、旅の男は、飛び上がった。
とたんに、真赤な霧風が剣光をまいた。大地には、首と胴が形を変えて離ればなれになっている。
「童子、死骸を検べてみろ」
「ご主人様。……袍の襟を解いたらこんな物が出てきました」
「オオ。玄徳の返書だ」
陣宮は、一読すると、
「誰にも、口外するなよ。わしはこれから、徐州城へ参るゆえ、弓を持って、おまえは先に邸へ帰れ」
供の童子にいい残して、陳宮はその足ですぐ登城した。
直ちに、陳宮、臧覇の二大将に兵を授け、
彼は、附近の泰山にいる強盗群を語らって、強盗の領袖、孫観、呉敦、昌豨、尹礼などという輩に、
「山東の州軍を荒し廻れ。今なら、伐取り勝手次第」と、けしかけた。
玄徳は、驚愕した。
と、胆を寒うした。
先頃、曹操から、密書をもって云いよこしたことばには、呂布を討つ機会は、実に今をおいてはない。北方の袁紹も、北平と事を構えて、黄河からこっちを顧みている遑はなし、呂布、袁術のあいだも、国交の誼みなく、予と其許とが呼応して起てば、呂布は孤立の地にある。まことに、易々たる事業というべきではないか。
取りあえず部署をさだめた。
三
なにを口喧嘩しているのか。
この戦の中に。
「なぜ、敵将を追うなと止めるか。敵の勇将を見て、追わぬほどなら、戦などやめたがいい」
といっているのが張飛。
それに対して、関羽は、
「いや、張遼という人物は、敵ながら武芸に秀で、しかも恥を知り、従順な色が見える。――だから生かしておきたいのだ。そこが武将のふくみというものではないか」
と、諭したり、説破したり、論争に努めている。
玄徳の耳にはいったとみえ、
「この際、何事か」と、叱りがきた。
「関羽、どっちが理か非か。家兄の前へ出て埓を明けよう」
で、双方の云い分を玄徳が聞いてみると、こういう次第であった。
その日、早朝の戦に。
関羽は、城門の上から、
「敵ながらよい武者振りと思ったら、貴公は張遼ではないか。君ほどな人物も、呂布の如き粗暴で浅薄な人間を主君に持ったため、いつも無名の戦や、反逆の戦場に出て、武人か強盗か疑われるような働きをせねばならぬとは、同情にたえないことだ。――武将と生れたからには戦わば正義の為、死なば君国の為といわれるような生涯をしたいものだが、可惜、忠義のこころざしも、貴公としては、向け場がござるまい」
と、大音ながら、話しかけるような口調で呼びかけた。
すると――
「討って出るな」と、極力止めた。
「――張遼は惜しい漢だ。彼には正義の軍につきたい心と、恥を知る良心がある」
と、敵とはいえ、助けておきたい心もちと理由とを、張飛に力説した。
「おれの部署へ来て、よけいな指揮はしてもらいたくない」
張飛は、肯かない。
そこで口論となり、時を移してしまったので、寄手の張遼も、余りに無反応な城門に、不審を起したものか、やがて、退いてしまったというわけであった。
玄徳も、裁きに困ったが、
「まあ、よいではないか。捕えても逃がしても、大海の魚一尾、張遼一名のために、天下が変るわけもあるまい」
と、どっちつかずに、双方を慰撫した。
× × ×
どこかで、可憐な少女の歌う声がする。
十里城外は、戦乱の巷というのに、ここの一廓は静かな秋の陽にみち、芙蓉の花に、雲は麗しく、木犀のにおいを慕って、小さい秋蝶が低く舞ってゆく。
にらの花が、地面にいっぱい
金かんざし、銀かんざし
お嫁にゆく小姑に似合おう
小姑のお聟さんは
背むしの地主老爺
床にねるにも、おんぶする
卓へつくにも、だっこする
隣のお百姓さん
見ない振りしておいで
誰も笑わないことにしよう
前世の因縁、しかたがない
徐州城内の、北苑、呂布の家族や女たちのみいる禁園であった。十四ばかりの少女が、芙蓉の花を折りながら歌っている。歌に甘えて、その背へ、うしろから抱きついているのは、少女の妹であろう。やっと歩けるほどな幼さである。
四
誰もいないと思ってか、少女は手折った芙蓉を髪に挿し、また、声を張りあげて歌っていた。
妹是桂花 香千里
哥是蜜蜂 万里来
蜜蜂見花 団々転
花見蜜蜂 朶々開
呂布はその声に、後閣の窓から首を出した。
眼をほそめて、娘の歌に聞き恍れている顔つきである。
「…………」
姉は十四、妹は五ツ。
ふたりとも、呂布の娘である。
十四の姉のほうは、先頃、袁術の息子へ嫁がせるまでになって、一夜、盛大な歓宴をひらき、珠簾の輿にのせて、淮南の道へと見送ったが、にわかに、模様が変ったため、兵を派して輿を途中から連れもどし、そのまま、もとの深窓に封じてしまった、――あの花嫁御寮なのである。
花嫁はまだ小さい。
国と国の政略も知らない。戦争がどこに起っているかも知らない。父親の胸のうちも、徐州の城の運命も知らない。
ただ歌っている――そして幼い妹と手をつないでくるくるめぐっていたが、ふと、父の呂布の顔を、後閣の窓に見たので、
「あら!」
と、顔を紅らめながら母たちの住んでいる北苑の深房へ馳けこんでしまった。
「はははは。まだまことに無邪気な姫君でいらっしゃいますな」
「む、む。……あのようにまだ子どもだからな、可憐しいよ」
呂布は腕をくんだ。――なにか娘のことについて、沈吟しているようだった。
室には郝萌と彼と、ただ二人きりで、最前から何か密談していたところである。
(急ぎ淮南へ参って、袁術に会い、先頃の縁談は、まったく曹操にさまたげられて、一旦はお約束にそむいたものの、依然、貴家との婚姻はねがっているところである。――と申して、至急取りまとめて来い)との秘命をうけて、早馬で淮南へ向い、つい今しがた、袁術からの返辞を持って、これへ帰ってきたものであった。
急に、婚約の儀を蒸し返して、袁術へ、唇歯の交わりを求める裏には、
(二家姻戚として、二国同盟して、共に、曹操を打破ろうではないか)
と、いう軍事的な意味がもちろん含まれている。
(ともあれ愛娘の身を先に淮南へお送りあるなれば、充分、好意をもってご返答に及ぼう)
という、返辞だった。
要するに、愛娘を先に質子として送り、信義を示すならば――という条件なのである。
「娘を淮南へ送ったものか、どうしたものか? ……」と。
そして、すでに、
「やろう」と、肚をきめかけた時、ふと、愛娘の歌声が聞えてきたのである。可憐な、そしてまだ無邪気な愛娘のすがたを、苑に見ると、彼はまた気が変って、
「……いや。花嫁としてやるならばだが、質子として、遠い淮南へ、むすめをやるほど、呂布もまだ落ち目になっておらん。袁術のほうでそう高くとまっているなら、この問題はもっと先のことにしよう。……郝萌、使いの役目、大儀だった。退がって休息するがいい」
と、いった。そして遂に、袁術へ提携を呼びかけた婚姻政略の蒸し返しは、一時、断念してしまった。
五
彼が恐れているのは、曹操を敵にまわすことである。
と考えて、彼は急遽、郝萌を淮南へ飛ばし、袁術の肚を当ってみたわけであるが、先も足もとを見て、妥協しかねる条件を持ち出すなど、不遜な態度を示したので、呂布は自己の面子としても、また、わが娘への愛着からも、これ以上の屈辱には忍べなかった。
で。――そのほうが望み薄ときまると、却って彼は肚がすわったように、
「よし、この上は」と翌日は、自身、戦場に臨んで、督戦した。
「こんな小城一つに、幾日、攻めあぐねておるぞ。一押しに、踏みつぶせ」
「呂将軍、呂将軍、何とてかくは烈しく囲み給うか。それがしと将軍とは、情あり恩あり、誼みこそあれ、仇はない筈。――先に、曹操より天子の勅命として、それがしに兵を催せとの厳命ゆえ、やむなく承知の返簡は認めたが、なんで立ちどころに将軍との旧交を捨てて故なき害意をさし挟もうや。願わくは、ご賢慮あれ。――将軍とこの劉備とが戦って、相互の兵力を多大に消耗し尽すを、陰でよろこび、陰で利益する者は、何者なるかを、深くご賢察あれや」
呂布は、それを聞くと、しばらく馬上に黙然としていたが、突然、
「包囲は解くな」
と、味方へいいつけて、ひらりと、陣後へ馬をかえしてしまった。
(そうかな?)
という気迷いにとらわれて、自身は徐州の城へ帰ってしまった。
「委細は、主人劉備の書中にございますが、かくかくの次第、一刻もはやくご救援を乞いまする」
と、告げた。
「劉備を見ごろしにしては、予の信義に反く。今、袁紹は北平の討伐に向い、それに憂いはないが、なお予の背後には張繍、劉表の勢力が、常に都の虚をうかがっている。――とはいえ、呂布を放置しておかんか、これまた、いよいよ勢いを強大にし、将来の患となるのは目に見えておる。――如かず、一部の者に、許都の留守をあずけ、予は劉備を援けて、共にこの際、呂布の息の根をとめてこようと思う。汝らは、如何に思うか」
と、評議に諮った。
六
堂中の諸大将を代表して、荀攸が起立して答えた。
「出師のご発議、われらに於てもしかるべく存じます。劉表、張繍とても、先ごろ手痛く攻撃された後のこと、軽々しく兵をおこして参ろうとは思われません。――それをはばかって、もしこの際、呂布のなすままに委せておいたら、袁術と合流して、泗水淮南に縦横し、遂には将来の大患となりましょう。彼の勢いのまだ小なるうちに、よろしく禍いの根を断つこそ急務と思われます」
曹操は左の手を胸に当て、右手を高く伸ばして、
「いしくも申したり。――満座、異議はないか」
といった。
異口同音に、
「ありません」
諸大将、すべて起立して、賛意を表した。
「なに。曹操の先手が、はや着いたとか」
城中の玄徳は、
その日の戦に。
「きたなし、返せ返せ」と、呼ばわりながらあくまで追い馳けまわして行った。
矢は、夏侯惇の左の眼に突き刺さった。彼の半面は鮮血に染み、思わず、
「あッ」
と、鞍の上でのけ反ったが、鐙に確と踏みこたえて、片手でわが眼に立っている矢を引き抜いたので、鏃と共に眼球も出てしまった。
夏侯惇は、どろどろな眼の球のからみついている鏃を面上高くかざしながら、
「これは父の精、母の血液。どこも捨てる場所がない。――あら、もったいなや」
と、大音で独り言をいったと思うと、鏃を口に入れて、自分の眼の球を喰べてしまった。
そして、真っ赤な口を、くわっと開いて、片眼に曹性のすがたを睨み、
「貴様かッ」
と、馬を向け跳びかかってくるや否、ただ一槍の下に、片眼の讐を突き殺してしまった。
七
おそらく天下第一の健啖家は、夏侯惇であろう。
――後には、人々の話題をにぎわし、夏侯惇もよく笑いばなしに語ったが、わが眼を喰って血戦したその場合の彼の心は、悲壮とも壮絶ともいいようはない。
眼球を抜かれた一眼の窪からあふれでる鮮血は止まらない。もちろん激痛も甚だしかった。
「今はこれまで」と、彼も最期を思ったほど、敵の中に囲まれていたのである。
その重囲を、一角から斬りくずして、彼の身を救って出たのは、彼の弟夏侯淵であった。
夏侯淵は、兄を助けて、
「ひとまず退きましょう」
味方の李典、呂虔の陣へ走りこんで一手となった。
勢いにのった呂布軍は、全線にわたって、攻勢を示し、
「この図をはずすな」と、呂布自身、馬をとばして、押し進んできた。
「勝機は今!」と、確信したものか、奔濤の勢いをそのまま揚げて、直ちに、小沛まで詰め寄せてきた。
乱箭の交換に、雲は叫び、肉闘剣戟の接戦となって、鼓は裂け、旗は折れ、天地は震撼した。
当然、敗退した。
「大耳児。待て」と、呼びかけた。
玄徳は、その声に、
「追いつかれては――」と、戦慄した。
きょうの呂布の血相では、所詮、口さきで彼の戟を避けることはできそうもない。
「逃げるに如くなし」
玄徳は、うしろも見ず、馬に鞭打った。
ところが、余りに、追迫されたので、彼が、城門の濠橋まで来てみるともう橋はあげてある。
「玄徳なるぞ、吊橋を下ろせ」
「もし、主人を射ては」と、手もすくんで、遂に一矢も放つことができなかった。
もちろん呂布の前には、たちまち、十騎二十騎と立ちふさがったが、彼の大戟が呼ぶ血風の虹をいよいよ壮絶にするばかりだった。
その間に。