平和主義者
一
の位置は、確固たるものになった。
「爾来、ごぶさたをいたしていましたが」
と、久しぶりに消息を送って、さて、その使者をもって、こういわせた。
「かねて、お手許へお預けしておいた伝国の玉璽ですが、あれは大切なる故人孫堅の遺物ですから、この際お返しねがいたいものです。――もちろん、当時拝借した兵馬に価する物は、十倍にもしてお返し申しますが」
× × ×
時に。
「今日、この議閣に諸君の参集を求めたのはほかでもないが、今となって孫策から、にわかに、伝国の玉璽を返せと云ってきた。――どう答えてやったものだろうか。それについて、各〻に意見あらば云ってもらいたい」
その日。
袁術は、三十余名の諸大将へ向って諮った。
長史楊大将、都督長勲をはじめとして、紀霊、橋甤、雷薄、陳闌――といったような歴々がのこらず顔をそろえていた。
「真面目にご返辞などやるには当りますまい、黙殺しておけばよろしい」
一人の大将がいう。
すると、次席の将がまた、
「孫策は、忘恩の徒だ。――ご当家で養われたばかりか、偽って、三千の兵と、五百頭の馬を拝借して去ったまま、今日まで何の沙汰もして来ない。――便りをしてきたと思えば、預けた品を返せとはなんたる無礼か」と、罵った。
「ウム、ウム」
袁術の顔色は良かった。
諸臣はみな彼の野望をうすうす知っていた。で、一斉に、
「よろしく江東に派兵して、忘恩の徒を懲らすべきである」と、衆口こぞって云った。
しかし、楊大将は反対して、
「江東を討つには、長江の嶮を渡らねばならん。しかも孫策は今、日の出の勢いで、士気はあがっている――如かず、ここは一歩自重してまず北方の憂いをのぞき、味方の富強を増大しておいてから悠々南へ攻め入っても遅くないでしょう」
「いかにして、二者を反かせるか」
「それは易々とできましょう。ただし、先にご当家から呂布へ与えると約束した兵糧五万斛、金銀一万両、馬、緞子などの品々を、きれいにくれてやる必要がありますが」
「よし、やろう」
袁術は、即座にその説を取り上げた。
呂布の歓心を求める為に。
二
呂布も、そう甘くはない。
「はてな、今となって、あの袁術が、莫大な財貨を贈ってきたのは、どういう肚なのだろう」
もとより、意欲では歓んだが、同時に疑心も起した。
「陳宮、そちはどう思う」
腹心の陳宮に問うと、
「見えすいたことですよ」と陳宮は笑った。
「そうだろうな。おれもなんだかそんな気がした」
「劉備が小沛にいることは、あなたにとっては前衛にはなるがなんの害にもなりません。それに反して、もし袁術の手が伸びて、小沛が彼の勢力範囲になったら、北方の泰山諸豪とむすんでくるおそれもあるし、徐州は枕を高くしていることはできなくなる」
「その手には乗らんよ」
「そうです。乗ってはなりません。受ける物は遠慮なく受けて、冷観しておればよろしいのです」
数日の後。
果たせるかな情報が入った。
「不測の大難が湧きました。至急、ご救援をねがいたい」
と、呂布へ向って早馬を立てた。
呂布は、双方の板ばさみになったわけだが、決して困ったような顔はしなかった。
呂布は、二通の手紙を書いた。
関羽は、断じて引止めた。
「呂布に異心があったらどうしますか」
「自分としては、今日まで彼に対して節義と謙譲を守ってきた。彼をして疑わしめるような行為はなにもしていない。――だから彼が、予を害そうとするわけはない」
「あなたは、そういっても、われわれには、呂布を信じきれない。――しばらくお出ましは待って下さい」
「張飛ッ。どこへ行く気か」
と左右へいった。
張飛はもう剣を払って馳けだしていたが、人々に抱き止められてようやく連れ戻されて来た。
三
張飛は、唾するように、
「行くさ! 誰が行かずにいるものか」と、玄徳に従って、自分もあわてて馬に乗った。
関羽が苦笑すると、
「何を笑う。自分だって、行くなと止めた一人じゃないか」
と、まるで子どもの喧嘩腰である。
やがて、呂布が席についた。
「よう来られた」
この挨拶はいいが、その次に、「この度はご辺の危難をすくうためこの方もずいぶん苦労した。この恩を忘れないようにして貰いたいな」と、いった。
「ご高恩のほど、なにとて忘れましょう。かたじけのうぞんじます」
そこへ、呂布の家臣が、
「オ。はや見えたか。これにご案内しろ」
紀霊は、敵の大将だ。しかも交戦中である。あわてて席を立ち、
「お客のようですから、私は失礼しておりましょう」
と、避けてそこをはずそうとすると、呂布は押止めて、
「いや、今日はわざと、足下と紀霊とを、同席でお呼びしてあるのだ。まあ、相談もあるから、それへかけておいでなさい」
そのうちに、もう紀霊が、つい外まで案内されて来た様子。
呂布の臣となにか話しながらやってくるらしく、豪快な笑い声が近づいてくる。
「こちらです」
案内の武士が、営門の帷をあげて、閣の庭を指すと、紀霊は何気なく入りかけたが、
「……あっ?」と、顔色を変えて、そこへ足を止めてしまった。
敵方の三人が、揃いも揃ってそこの席にいたのである。――紀霊にしても驚いたのはむりもない。
呂布は、振返って、「さ。これへ来給え」と、空いている一席を指さした。
しかし、紀霊は、疑わずにいられなかった。恐怖のあまり彼は身をひるがえして、外へ戻ってしまった。
「来給えというのに。なにを遠慮召さるか」
「呂公、呂公。何科あって、君はこの紀霊を、殺そうとし給うのか」と、悲鳴をあげた。
呂布は、くすくす笑って、
「君を殺す理由はない」
「では、玄徳を殺す計で、あれに招いておるのか」
「いや、玄徳を殺す気もない」
「しからば……しからば一体どういうおつもりで?」
「双方のためにだ」
「分らぬ。まるで狐につままれたようだ。そう人を惑わせないで、本心を語って下さい」
「おれの本心は、平和主義だ。おれは元来、平和を愛する人間だからね。――そこで今日は、双方の顔をつき合わせて、和睦の仲裁をしてやろうと考えたわけだ。この呂布が仲裁では、君は役不足というのか」
四
平和主義も顔負けしたろう。
それも、余人がいうならともかく、呂布が自分の口で、(おれは平和主義だ)と、見得を切ったなどは、近ごろの珍事である。
もとより紀霊も、こんな平和主義者を、信用するはずはない。おかしいよりも、彼は、なおさら疑惑に脅かされた。
「和睦といわれるが、いったい和睦とは、どういうわけで?」
「和睦とは、合戦をやめて、親睦をむすぶことさ。知らんのか君は」
紀霊は、呆っ気にとられた。
その顔つきを煙にまいて、呂布は、彼の臂を引っ張ッたまま席へつれてきた。
変なものができあがった。
「…………」
「…………」
お互いにしり眼に見合って、毅然と構えながらももじもじしていた。
「こう並ぼう」
酒宴になった。
だが、酒のうまかろうはずがない。どっちも、黙々と、杯の端を舐めるようなことをしている。
そのうちに呂布が、
「さあ、これでいい。――これで双方の親交も成立した。胸襟をひらいて、ひとつ乾杯しよう」
と、ひとり飲みこんで杯を高くあげた。
しかし、挙がった手は、彼の手だけだった。
ここに至っては、紀霊も黙っていられない。席を蹴らんばかりな顔をして、
「冗談は止めたまえ」と、呂布へ正面を切った。
「なにが冗談だ」
「考えてもみられよ。それがしは君命をうけて、十万の兵を引率し、玄徳を生捕らずんば生還を期せずと、この戦場に来ておるのだ」
「分っておる」
「…………」
「やい紀霊ッ。これへ出ろ。――黙っておれば、人もなげな広言。われわれ劉玄徳と誓う君臣は、兵力こそ少いが、汝ら如き蛆虫や、いなごとは実力がちがう。そのむかし、黄巾の蜂徒百万を、僅か数百人で蹴散らした俺たちを知らないか。――もういちどその舌の根をうごかしてみろ! ただは置かんぞッ」
「そう貴様一人で威張るな。いつも貴様が先に威張ってしまうから、俺などの出る所はありはしない」
「ぐずぐず云っているのは、それがし大嫌いだ。やい紀霊、戦場に所は選ばんぞ。それほど、わが家兄の首が欲しくば取ってみろ」
すると、張飛は、
と、髪は、冠をとばし、髯は逆しまに分かれて、丹の如き口を歯の奥まで見せた。
五
「この匹夫めが」
剣を鳴らして起ちかけた。
呂布は、双方を睨みつけて、
「やかましい。無用な騒ぎ立てするな」と、大喝して、
「誰か、来い」と、後ろへもどなった。
そして馳け集まって来た家臣らに向い、
「おれの戟を持って来い。おれの画桿の大戟のほうだ」と、すさまじい語気でいいつけた。
「どうなることか」と、見まもっている。
画桿の大戟は彼の手に渡された。それを引っ抱えながら一座を睨めまわして、呂布はこう云いだした。
「今日、おれが双方を呼んで、和睦しろというのは、おれがいうのじゃない。天が命じているのだ。それに対して、私の心をはさみ、四の五の並べ立てるのは天の命に反くものだぞ」
果然、彼はまだ、厳かな平和主義者の仮面を脱がない。
なに思ったか、呂布は、そういうや、否、ぱっと、閣から走りだして、彼方、轅門のそばまで一息に飛んでゆくと、そこの大地へ、戟を逆しまに突きさして帰って来た。
そしてまた云うには、
「見給え、ここから轅門までのあいだ、ちょうど百五十歩の距離がある」
一同は、彼の指さすところへ眼をやった。なんのために、あんな所へ戟を立てたのか、ただいぶかるばかりだった。
「――そこでだ。あの戟の枝鍔を狙って、ここからおれが一矢射て見せる。首尾よくあたったら、天の命を奉じて、和睦をむすんで帰り給え。あたらなかったら、もっと戦えよという天意かも知れない。おれは手を退いて干渉を止めよう。勝手に、合戦をやりつづけるがいい」
奇抜なる提案だ。
紀霊は、あたるはずはないと思ったから、同意した。
玄徳も、
「おまかせする」と、いうしかなかった。
「では、もう一杯飲んで」と、席に着き直って、呂布はまた、一巡酒をすすめ、自分も彼方の戟を見ながら飲んでいたが、やがてぽっと酔いが顔にきざしてきた頃、
「弓をよこせ!」と、家臣へどなった。
閣の前へ出て、呂布は正しく片膝を折った。
弓は小さかった。
弭――または李満弓ともいう半弓型のものである。けれど梓に薄板金を貼り、漆巻で緊めてあるので、弓勢の強いことは、強弓とよぶ物以上である。
「…………」
ぶツん!
弦はぴんと返った。切ってはなたれた矢は笛の如く風に鳴って、一線、鮮やかに微光を描いて行ったが、カチッと、彼方で音がしたと思うと、戟の枝鍔は、星のように飛び散り、矢は砕けて、三つに折れた。
「――あたった!」
「さあ約束だ。すぐ天の命を受け給え。何、主君に対して困ると。――いや袁術へは、こちらから書簡を送って、君の罪にならぬようにいっておくからいい」
「どうだ君。もし俺が救わなかったら、いかに君の左右に良い両弟が控えていても、まず今度は、滅亡だったろうな」
売りつける恩とは知りながらも、玄徳は、
「身の終るまで、今日のご恩は忘れません」
と、拝謝して、ほどなく小沛へ帰って行った。