胡弓夫人
一
「この地を去る思い出に」
とばかり、呂布の兵を踏みやぶり、その部将の魏続、宋憲などに手痛い打撃を与えて、
「これで幾らか胸がすいた」と、先へ落ちて行った劉玄徳のあとを追い慕った。
時は、建安元年の冬だった。
曹操は、しかし決してそれに無情ではなかった。
「玄徳は、わが弟分である」
といって、迎うるに賓客の礼をとり、語るに上座を譲ってなぐさめた。
玄徳は、恩を謝して、日の暮れがた相府を辞し、駅館へひきあげた。
「玄徳はさすがに噂にたがわぬ人物ですな」と、意味ありげに、独り言をもらした。
「彼こそ将来怖るべき英雄です。今のうちに除いておかなければ、ゆく末、あなたにとっても、由々しい邪魔者となりはしませんか」と、暗に殺意を唆った。
曹操は、何か、びくとしたように、眼をあげた。その眸は、赤い熒光を放ったように見えた。
「とんでもない事です――」といわんばかりな顔して、すぐ首を横に振った。
「彼がまだ無名のうちならとにかく、すでに今日では、義気仁愛のある人物として、劉玄徳の名は相当に知られています。もしあなたが、彼を殺したら、天下の賢才は、あなたに対する尊敬を失い、あなたの唱えてきた大義も仁政も、嘘としか聞かなくなるでしょう。――一人の劉備を怖れて、将来の患いを除くために、四海の信望を失うなどは、下の下策というもので、私は絶対に賛成できません」
「よく申した」
曹操の頭脳は明澄である。彼の血は熱しやすく、時に、また濁りもするが、人の善言をよくうけ入れる本質を持っている。
さらに。
玄徳が、任地へおもむく時には、兵三千と糧米一万斛を贈り、
「君の前途を祝す予の寸志である」と、その行を盛んにした。
「時来れば、君の仇を、君と協力して討ちに行こう」と、ささやいた。
「…………」
玄徳は、唯々として、何事にも微笑をもってうなずきながら任地へ立った。
「この花園をうかがう賊は何者なりや!」と、彼は憤然と、剣を杖として立ち、刻々、相府へ馳けこんでくる諜報員の報告を、厳しい眼で聞きとった。
二
先頃から董一族の残党をかりあつめて、
王城復古
打倒曹閥
「捨ておけまい」
曹操は、進んで討とうと肚をきめた。
「その儀なれば、何も思案には及びますまい」と、至極、簡単にいった。
「そうかなあ。余人は恐るるに足らんが、呂布だけは目の離せない曲者と予は思うが」
「ですから、与し易しということもできましょう」
「利を喰わすか」
「そうです。慾望には目のくらむ漢ですから、この際、彼の官位を昇せ、恩賞を贈って、玄徳と和睦せよと仰っしゃってごらんなさい」
「そうか」
曹操は、膝を打った。
そこで曹操は、
「どうだろう、勝ち目はあるか」
「だめです。曹操が全力をあげて、攻勢に出てきては」
「では、どうしたらいいか」
「降服あるのみです」
「どうだな、君は、張繍の所を去って、予に仕える気はないか」
「身にあまる面目ですが、張繍もよく私の言を用いてくれますから、棄てるにしのびません」
「以前は、誰に仕えていたのかね」
「李傕に随身していました。しかしこれは私一代の過ちで、そのため、共に汚名を着たり、天下の憎まれ者になりましたから、なおさら、自重しております」
宛城の内外は、戦火をまぬかれて、平和のための外交がすすめられていた。
曹操は、宛城に入って、城中の一郭に起居していたが、或る夜のこと、張繍らと共に、酒宴に更けて、自分の寝殿に帰って来たが、ふと左右をかえりみて、「はてな? この城中に美妓がいるな。胡弓の音がするぞ」と、耳をすました。
三
彼の身のまわりの役は、遠征の陣中なので、甥の曹安民が勤めていた。
「安民。おまえにも聞えるだろう。――あの胡弓の音が」
「はい、ゆうべも、夜もすがら、哀しげに弾いていたようでした」
「誰だ? いったい、あの胡弓を弾いている主は」
「妓女ではありません」
「おまえは、知っているのか」
「ひそかに、垣間見ました」
「怪しからんやつだ」
曹操は、戯れながら、苦笑してなお訊ねた。
「美人か、醜女か」
「絶世の美人です」
安民は、大真面目である。
「そうか、……そんな美人か……」と、曹操は、酒の香をほッと吐いて、春の夜らしい溜息をついた。
「おい。連れて来い」
「え。……誰をですか」
「知れたことを訊くな。あの胡弓を奏でている女をだ」
「未亡人でも構わん。おまえは口をきいたことがあるのだろう。これへ誘ってこい」
「奥郭の深園にいるお方、どうして、私などが近づけましょう。言葉を交わしたことなどありません」
「では――」と、曹操はいよいよ語気に熱をおびて、いいつけた。
「はいっ」
曹安民は、叔父の眼光に、嫌ともいえず、あわてて出て行ったが、しばらくすると、兵に囲ませて、一人の美人をつれて来た。
帳外の燭は、ほのかに閣の廊に揺れていた。
曹操は、佩剣を立てて、柄頭のうえに、両手をかさねたままじっと立っていた。
「召しつれました」
「大儀だった。おまえ達はみな退がってよろしい」
曹安民以下、兵たちの跫音は、彼方の衛舎へ遠ざかって行く。――そして後には、悄然たるひとりの麗人の影だけがそこに取り残されていた。
「夫人、もっと前へおすすみなさい。予が曹操だ」
「…………」
彼女は、ちらと眸をあげた。
なんたる愁艶であろう。蘭花に似た瞼は、ふかい睫毛をふせておののきながら曹操の心を疑っている。
「怖れることはない。すこしお訊ねしたいことがある」
曹操は、恍惚と、見まもりながら云った。
傾国の美とは、こういう風情をいうのではあるまいか。――夫人は、うつ向いたまま歩を運んだ。
「お名まえは。姓は?」
重ねて問うと、初めて、
「亡き張済の妻で……鄒氏といいまする」
かすかに、彼女は答えた。
「予を、ご存じか」
「丞相のお名まえは、かねてから伺っておりますが、お目にかかるのは……」
「胡弓をお弾きになっておられたようだな。胡弓がおすきか」
「いいえ、べつに」
「では何で」
「あまりのさびしさに」
「おさびしいか。おお、秘園の孤禽は、さびしさびしと啼くか。――時に夫人、予の遠征軍が、この城をも焼かず、張繍の降参をも聞き届けたのは、いかなる心か知っておられるか」
「…………」
曹操は、五歩ばかりずかずかと歩いて、いきなり夫人の肩に手をかけた。
「……お分りか。夫人」
夫人は、肩をすくめて貌容を紅の光に染めた。
曹操は、その熱い耳へ、唇をよせて、
「あなたへ恩を売るわけではないが、予の胸一つで張繍一族を亡ぼすも生かすも自由だということは、お分りだろう。……さすれば、予がなんのために、そんな寛大な処置をとったか。……夫人」
幅広い胸のなかに、がくりと、人形のような細い頸を折って仰向いた夫人は、曹操の火のような眸に会って、麻酔にかかったようにひきつけられた。
「予の熱情を、御身はなんと思う。……淫らと思うか」
「い……いいえ」
「うれしいと思うか」
たたみかけられて、夫人の鄒氏はわなわなふるえた。蝋涙のようなものが頬を白く流れる。――曹操は、唇をかみ、つよい眸をその面に屹とすえて、
「はっきりいえっ!」
難攻の城を攻めるにも急激な彼は、恋愛にも持ち前の短気をあらわして武人らしく云い放った。
すこし面倒くさくなったのである。
「おいっ、返辞をせんかっ」
ゆすぶられた花は、露をふりこぼしてうつ向いた。そして唇のうちで、何かかすかに答えた。
「何を泣く、涙を拭け」
云いながら、彼は室内を大股に濶歩した。