秋雨の頃
一
諸州の浪人の間で、
とか、
「西涼軍は、木ッぱ微塵に敗れて、再起もおぼつかないそうだ」
とか、また、
などと大国だけに、都の乱もひと事のように語っていた。
朝廷から曹操へ、
「討伐せよ」と、命が下ってきた。
曹操は、近頃、朝廷に立ってほしいままに兵馬政権をうごかしている新しい廟臣たちを、内心では認めていない。
だが、朝廷という名において、命に服した。また、どんな機会にでも、自分の兵馬をうごかすのは一歩の前進になると考えるので、命を奉じた。
彼の精兵は、たちまち、地方の鼠賊を掃滅してしまった。朝廷は、彼の功を嘉し、新たに、「鎮東将軍」に叙した。
けれど、その封爵の恩典よりも、彼の獲た実利のほうがはるかに大きかった。
時は初平三年十一月だった。
こうして彼の門には、いよいよ諸国から、賢才や勇猛の士が集まった。
曹操が見て、
「貴様は我が張子房である」
と許したほどの人物、荀彧もその時に抱えられた。
荀彧はわずか二十九歳だった。また甥の荀攸も、行軍教授として、兵学の才を用いられて仕え、そのほか、山中から招かれて来た程昱だの、野に隠れていた大賢人郭嘉だの、みな礼を篤うしたので、曹操の周囲には、偉材が綺羅星のごとく揃った。
わけても、陳留の典韋は、手飼いの武者数百人をつれて、仕官を望んで来た。身丈は一丈に近く眼は百錬の鏡のようだった。戦えば常に重さ八十斤の鉄の戟を左右の手に持って、人を討つこと草を薙ぐにひとしいと豪語してはばからない。
「嘘だろう」
曹操も信じなかったが、
「さらば、お目にかけん」と、典韋は、馬を躍らせて、言葉のとおり実演して見せた。ちょうどまた、その折、大風が吹いて、営庭の大旗がたおれかかったので、何十人の兵がかたまって、旗竿をたおすまいとひしめいていたが、強風の力には及ばず、あれよあれよと騒いでいるのを見て、典韋は、
「みんな退け」と、走りよって、片手でその旗竿を握り止めてしまったのみか、いかに烈風が旗を裂くほど吹いても、両掌を用いなかった。
「ウーム、古の悪来にも劣らない男だ」
曹操も舌を巻いて、即座に彼を召抱え、白金襴の戦袍に名馬を与えた。
二
曹操は、一日ふと、
「おれも今日までになるには、随分親に不孝をかさねてきた」と、故山の父を思い出した。
「わしの厳父を迎えて来い」
彼は、泰山の太守応劭を、使いとして、にわかに瑯琊へ向けた。
「それみろ」と、曹嵩の息子自慢はたいへんなものだった。
「あれの叔父貴も、親類どもも、曹操が少年時分には行く末が案じられる不良だなどと、口をきわめて、悪く云いおったが――なアに、あいつは見所があるよと、大まかに許していたのは、わしばかりじゃった。やはりわしの眼には狂いがなかったんじゃ」
折から秋の半ばだった。
「楓林停車」という南画の画題そのままな旅行だった。老父は時おり、紅葉の下に車を停めさせて、
「こんな詩ができたがどうじゃ。――ひとつ曹操に会ったら見せてやろう」
などと興じていた。
「ぜひ、こよいは城内で」と、徐州城に迎え、二日にわたって下へもおかないほど歓待した。
「一国の太守が、老いぼれのわしを、こんなに待遇するはずはない。曹操が偉いからだ。思えばわしはよい子を持った」
曹嵩は、城内にいる間も、息子自慢で暮していた。
事実、ここの太守陶謙はかねてから曹操の盛名を慕って、折あれば曹操と誼みを結びたいと思っていたが、よい機会もなかったのである。――ところへ、曹操の父が一家をあげて、自分の領内を通過して兗州へ引移ると聞いたので、「それはよい機会だ」と、自身出迎えて、一行を城内に泊め、精いっぱいの歓迎を傾けたのであった。
「陶謙は好い人らしいな」
華費という山中まで来ると、変りやすい秋空がにわかにかき曇って、いちめんの暗雲になった。
青白い電光が閃いてきたかと思うと、ぽつ、ぽつと大粒の雨が落ちて来た。木の葉は、山風に捲かれ、峰も谷も霧にかくれて、なんとなく物凄い天候になった。
「通り雨だ。どこか、雨宿りするところはないか」
「寺がある。山寺の門が」
「あれへ逃げこめ」
馬も車も人も雨に打ち叩かれながら山門の陰へ隠れこんだ。
そのうちに、日が暮れてきたので、
「こよいはこの寺へ泊るから、本堂を貸してくれと、寺僧へ掛合って来い」
と、張闓は兵卒へ命じた。
彼は日頃、部下にも気うけのよくない男と見え、濡れ鼠となった兵隊は皆何か不平にみちた顔をしていた。
三
冷たい秋の雨は、蕭条と夜中までつづいていた。
暗い廊に眠っていた張闓は、何思ったか、むっくりと起きて、兵の伍長を、人気のない所へ呼びだしてささやいた。
「宵から、兵隊たちが皆、不平顔をしているじゃないか」
「仕方がありません。なにしろ日頃の手当は薄いし、こんなつまらぬ役をいいつかって、兗州まであんな老いぼれを護送して行っても、なんの手功にもならないことは知れていますからね」
伍長は、嘯いて云った。叱るのかと思うと、張闓は、
「いや、もっともだ、無理はない」と、むしろ煽動して、
「なにしろ、俺たちは、もともと黄巾賊の仲間にいて、自由自在に、気ままな生活をしていたんだからな。――陶謙に征伐されて、やむなく仕えてみたが、ただの仕官というやつは、薄給で窮屈で、兵隊どもが、不平勝ちに思うのも仕方がない。……どうだ、いっそのこと、また以前の黄色い巾を髪につけて、自由の野に暴れ出そうか」
「――といっても、今となっちゃあ遅蒔でしょう」
「なあに、金さえあればいいのだ。幸い、俺たちの護衛して来た老いぼれの一族は、金もだいぶ持っているらしいし、百輛の車に、家財を積んでいる。こいつを横奪りして山寨へ立て籠るんだ」
こんな悪謀がささやかれているとは知らず、曹嵩は、肥えた愛妾と共に、寺の一室でよく眠っていた。
夜も三更に近い頃――
突然、寺のまわりで、喊声がわきあがったので、老父の隣の部屋に寝ていた曹操の実弟の曹徳が、
「やっ。何事だろう」と、寝衣のまま、廊へ飛び出したところを、物もいわず、張闓が剣をふりかざして斬り殺してしまった。
――ぎゃっッ。
という悲鳴が、方々で聞えた。曹嵩のお妾は、
「ひッ、ひと殺しっ」
と絶叫しながら、方丈の墻をこえて逃げようとしたが、肥っているので転げ落ちたところを、張闓の手下が槍で突き刺してしまった。
護衛の兵は、兇悪な匪賊と変じて、一瞬の間に殺戮をほしいままにしはじめたのである。
曹操から迎えのため派遣されて付いていた使者の応劭は、この兇変に度を失って、わずかな従者と共に危難は脱したが、自分だけ助かったので後難をおそれたか、主君の曹操のところへは帰りもせず、その地から袁紹を頼って逃亡してしまった。
――酸鼻な夜は明けた。
まだそぼ降っている秋雨の中に、山寺は火を放たれて焼けていた。そして、張闓一味の兇兵は、百余輛の財物と共に、もう一人もいなかった。
× × ×
と、眦を裂いて云った。
彼はあくまで、老父の遭難を陶謙の罪として怨んだ。
若年の頃、自分の邪推から、叔父の一家をみな殺しにして、平然とすましていた曹操ではあったが、それと似た兇変が今、自分の身近にふりかかってみると、その残虐を憎まずにいられなかった。その酷たらしさを聞いて哭かずにいられなかった。
「徐州を討て」
即日、大軍動員の令は発せられた。軍の上には報讐雪恨と書いた旗がひるがえった。
四
「ぜひ会わせて下さい」と、曹操を陣門に訪ねて来た者があった。
それは陳宮であった。
(この人は、王道に拠って、真に国を憂うる英雄ではない。むしろ国乱をして、いよいよ禍乱へ追い込む覇道の姦雄だ)と怖れをなして、途中の旅籠から彼を見限り、彼を棄てて行方をくらましてしまった旧知であった。
「君は今、何しているか」
「東郡の従事という小役人を勤めています」と、答えた。
すると曹操は、皮肉な笑みをたたえながら、早くも相手の来意を読んでいた。
「お察しの通りな目的で来ました。小生の知る陶謙は、世に稀な仁人です、君子です。――ご尊父がむごたらしい難に遭われたのは、まったく陶謙の罪ではなく、張闓の仕業です。小生は、ゆえなき戦乱のため、仁君子が苦しめられ、同時に将軍の声望が傷つけられんとするのを見て、悲しまずにいられません」
「ばかをいえ」
曹操は、今までの微笑を一喝に変えて云い放った。
「父や弟の恨みをそそぐのが、なんでわが声望の失墜になるか、君は元来、逆境の頃の予を見捨てて走った男ではないか、人に向って遊説して歩く資格があると思うのか」
行く行くこの猛軍は人民の墳墓をあばいたり、敵へ内通する疑いのある者などを、仮借なく斬って通ったので、民心は極端に恐れわなないた。
「曹操の軍には、とても敵しようもない。彼の恨みをうけたは皆、自分の不徳である。――自分は縛をうけて、甘んじて、彼の憤刀へこの首を授けようと思う。そして百姓や城兵の命乞いを彼にすがろう」
諸将を集めてそう告げた。しかし、将の大部分は、
「そんなことはできません。太守を見殺しにして、なんで自分らのみ助けをうけられましょうや」
折からまた、黄巾の残党が集結して、各所で騒ぎだしていた。北平の公孫瓚も、国境へ征伐に向っていたが、その旗下にあった劉備玄徳は、ふと徐州の兵変を聞いて、義のため、仁人の君子といううわさのある陶謙を援けに行きたいと、公孫瓚にはなしてみた。
公孫瓚は、むしろ不賛成で、
と、止めた。
「今の世にも、貴君のごとき義人があったか」と、涙をたたえた。