死活往来
一
城兵の士気は甦った。
孤立無援の中に、苦闘していた城兵は、思わぬ劉玄徳の来援に、幾たびも歓呼をあげてふるった。
といった。
玄徳は驚いて、
「飛んでもないことです」と、極力辞退したが、
「いやいや、聞説、あなたの祖は、漢の宗室というではないか。あなたは正しく帝系の血をうけている。天下の擾乱を鎮め、紊れ果てた王綱を正し、社稷を扶けて万民へ君臨さるべき資質を持っておられるのだ。――この老人の如きは、もうなんの才能も枯れている。いたずらに、太守の位置に恋々としていることは、次に来る時代の黎明を遅くさせるばかりじゃ。わしは今の位置を退きたい。それを安んじて譲りたい人物も貴公以外には見当らない。どうか微衷を酌んで曲げてもご承諾ねがいたい」
陶謙のことばには真実がこもっていた。うわさに聞いていた通り、私心のない名太守であった。世を憂い、民を愛する仁人であった。
けれど劉備玄徳は、なお、
「自分はあなたを扶けに来た者です。若い力はあっても、老台のような徳望はまだありません。徳のうすい者を太守に仰ぐのは、人民の不幸です。乱の基です」
と、どうしても、彼もまた、固辞して肯き容れなかった。
「つまらない遠慮をするものだ。どうも大兄は律義すぎて、現代人でなさ過ぎるよ、……よろしいと、受けてしまえばよいに」と、歯がゆそうに、顔見合わせていた。
「後日の問題になされては如何ですか。何ぶん城下は敵の大軍に満ちている場合ではあるし」
と、側から云った。
「いかにも」
と、それを引っ裂いて、
「使者など斬ってしまえ」と、一喝に退けた。
時しもあれ、その時、彼の本領地の兗州から、続々早打ちが駆けつけて来て、
と、次々に報らせが来た。
× × ×
彼も、都落ちの一人である。
すると一日、彼が閣外の庭先から駒を寄せて、城外へ遊びに出かけようとしていると、
「ああ、近頃は天下の名馬も、無駄に肥えておりますな」
呂布の顔の側へきて、わざと皮肉に呟いた男があった。
二
――変なことをいう奴だ。
呂布は迂さん臭い顔して、その男の風采を黙って見つめていた。
それは、陳宮であった。
「なんで吾輩の馬が、いたずらに肥えていると嘆くのか。よけいなおせっかいではないか」
呂布がいうと、
「いや、もったいないと申したのです」と、陳宮はいい直して、
「駒は天下の名駿赤兎馬、飼い人は、三歳の児童もその名を知らぬはない英傑であられるのに、碌々として、他家に身を寄せ、この天下分崩、群雄の競い立っている日を、空しく鞭を遊ばせているのは、実に惜しいことだと思ったのです」
「そういう君は一体誰だ」
「陳宮という無名の浪人です」
「そうです」
「いや、それはお見それした。だが、君は吾輩に今、謎みたいなことをいわれたが、どういう真意なのか」
「将軍は、この名馬をひいて、生涯、食客や遊歴に甘んじているおつもりか。それを先に聞きましょう」
「そんなことはない。吾輩にだって志はあるが時利あらずで」
呂布の顔色に血がさした。
「あっ、そうか。よく云ってくれた。君の一言は、吾輩の懶惰をよく醒ましてくれた。やろう!」
それからのことである。
× × ×
「不覚!」
曹操は、唇を噛んだ。
われながら不覚だったと悔いたがもう遅い。彼は、徐州攻略の陣中で、その早打ちを受けとると、
「どうしたものか」と、進退きわまったものの如く、一時は茫然自失した。
けれど、彼の頭脳は、元来が非常に明敏であった。また、太ッ腹でもあった。一時の当惑から脱すると、すぐ鋭い機智が働いて、常の顔いろに返った。
「最前、城内からの劉備玄徳の使者は、まだ斬りはしまいな。――斬ってはならんぞ。急いでこれへ連れて来い」
それから彼は、玄徳の使いに、
「深く考えるに、貴書の趣には、一理がある。仰せにまかせて、曹操はいさぎよく撤兵を断行する。――よろしく伝えてくれい」
と、掌を返すように告げて、使者を鄭重に城中へ送り帰し、同時に洪水の退くように、即時、兗州へ引揚げてしまった。
三
快鞭一打――
曹操は、大軍をひっさげて、国元へ引っ返した。
彼は、難局に立てば立つほど、壮烈な意気にいよいよ強靱を加える性だった。
「呂布、何者」
とばかり、すでに相手をのんでいた。奪われた兗州を奪回するに、何の日時を費やそうぞと、手に唾して向っていった。
濮陽に迫ると、
「休め」
と、彼は兵馬にひと息つかせ、真ッ紅な夕陽が西に沈むまで、動かなかった。
その前に、旗下の曹仁が、彼に向って注意した言葉を、彼はふと胸に思い出した。
それは、こういうことだった。
「呂布の大勇にはこの近国で誰あって当る者はありません。それに近頃彼の側には例の陳宮が付き従っているし、その下には文遠、宣高、郝萌などとよぶ猛将が手下に加わっておるそうです。よくよくお心をつけて向わぬと、意外に臍を噛むやも知れませんぞ――」
曹操は、その言葉を今、胸に反復してみても、格別、恐怖をおぼえなかった。呂布に勇猛あるかも知れぬが、彼には智慮がない。策士陳宮の如きは、たかの知れた素浪人、しかも自分を裏切り去った卑怯者、目にもの見せてやろうと考えるだけであった。
一方。
曹操の炯眼では、「彼の西の寨こそ手薄だな」と見た。
「西の寨が危険です」と、注意したにもかかわらず、そう気にもかけず眠っていた。
「寨は我一人でも奪回して見せん。汝ら入りこんだ敵の奴ばらを、一匹も生かして帰すな」
と、指揮に当ると、彼の麾下はまたたくまに、秩序をとりかえし、鼓を鳴らして包囲して来た。
山間の嶮をこえて深く入り込んだ奇襲の兵は、もとより大軍でないし、地の理にも晦かった。一度、占領した寨は、かえって曹操らの危地になった。
乱軍のうちに、夜は白みかけている。身辺を見るとたのむ味方もあらかた散ったり討死している。曹操は死地にあることを知って、
「しまった」
にわかに寨を捨てて逃げ出した。
そして南へ馳けて行くと、南方の野も一面の敵。東へ逃げのびんとすれば、東方の森林も敵兵で充満している。
「愈〻いかん」
彼の馬首は、行くに迷った。ふたたびゆうべ越えて来た北方の山地へ奔るしかなかった。
「すわや、曹操があれに落ちて行くぞ」
逃げまわった末、曹操は、城内街の辻を踏み迷って、鞭も折れんばかり馬腹を打って来た。するとまたもや前面にむらがっていた敵影の中から、カンカンカンカンと※子の音が高く鳴ったと思うと、曹操の身一つを的に、八方から疾風のように箭が飛んで来た。
「最期だっ。予を助けよ。誰か味方はいないか!」
さすがの曹操も、思わず悲鳴をあげながら、身に集まる箭を切り払っていた。
四
――時に、彼方から誰やらん、おうっ――と吠えるような声がした。
見れば、左右の手に、重さ八十斤もあろうかと見える戟をひっさげ、敵の真っただ中を斬り開いて馳せつけて来る者がある。馬も人も、朱血を浴びて、焔が飛んで来るようだった。
「ご主君、ご主君っ、馬をお降りあれ。そして地へ這いつくばり、しばらく敵の矢をおしのぎあれ」
矢攻めの中に立ち往生している曹操へ向って、彼は近よるなり大声で注意した。
「おお、悪来か」
曹操は急いで馬を跳び下り、彼のいう通り地へ這った。
悪来も馬を降りた。両手の戟を風車のように揮って矢を払った。そして敵軍に向って濶歩しながら、
「そんなヘロヘロ矢がこの悪来の身に立ってたまるか」
と、豪語した。
「小癪なやつ。打殺せ」
五十騎ほどの敵が一かたまりになって馳けて来た。
「――逃げ散りました。今のうちです。さあおいでなさい」
彼は、徒歩のまま、曹操の轡をとって、また馳け出した。二、三の従者もそれにつづいた。
けれど矢の雨はなお、主従を目がけて注いで来た。悪来は、盔の錣を傾けてその下へ首を突っ込みながら、真っ先に突き進んでいたが、またも一団の敵が近づいて来るのを見て、
「おいっ、士卒」と、後ろへどなった。
「――おれは、こうしているから、敵のやつが、十歩の前まで近づいたら声をかけろ」
と命じた。
そして、矢唸りの流れる中に立って、眠り鴨のように、顔へ錣をかざしていた。
「十歩ですっ」
と、後ろで彼の従者が教えた。
とたんに、悪来は、
「来たかっ」
と、手に握っていた短剣の一本をひゅっと投げた。
われこそと躍り寄って来た敵の一騎が、どうっと、鞍からもんどり打って転げ落ちた。
「――十歩ですっ」
また、後ろで聞えた。
「おうっ」
と、短剣が宙を切って行く。
敵の騎馬武者が見事に落ちる。
「十歩っ」
剣はすぐ飛魚の光を見せて唸ってゆく――
そうして十本の短剣が、十騎の敵を突き殺したので、敵は怖れをなしたか、土煙の中に馬の尻を見せて逃げ散った。
「笑止なやつらだ」
山の麓まで来ると、旗下の夏侯惇が数十騎をつれて逃げのびて来たのに出会った。味方の手負いと討死は、全軍の半分以上にものぼった。――惨憺たる敗戦である。いや曹操の生命が保たれたのはむしろ奇蹟といってよかった。
「そちがいなかったら、千に一つもわが生命はなかったろう」
五
ここ呂布は連戦連勝だ。
「この土地に、田氏という旧家があります。ごぞんじですか」
「田氏か。あれは有名な富豪だろう。召使っている僮僕も数百人に及ぶと聞いているが」
「そうです。その田氏をお召出しなさいまし。ひそかに」
「軍用金を命じるのか」
「そんなつまらないことではありません。領下の富豪から金をしぼり取るなんていうことは、自分の蓄えを気短かに喰ってしまうようなものです。大事さえ成れば、黄金財宝は、争って先方がご城門へ運んで来ましょう」
「では、田氏をよびつけて何をさせるのか」
「曹操の一命を取るのです」
それから数日後。
ひとりの百姓が、竹竿の先に鶏の蒸したのを苞にくるみ、それを縛って、肩にかつぎながら、寄手の曹操の陣門近くをうろついていた。
「胡散な奴」と、捕えてみると、百姓は、
「これを大将に献じたい」と、伏し拝んでいう。
「密偵だろう」
と、有無をいわさず、曹操の前へ引っぱって来た。すると百姓は態度を変えて、
「人を払って下さい、いかにも私は密使です。けれど、あなたの不為になる使いではありません」
と、いった。
近臣だけを残して、士卒たちを遠ざけた。百姓は、鶏の苞を刺していた竹の節を割って、中から一片の密書を出して曹操の手へ捧げた。
見ると、城中第一の旧家で富豪という聞えのある田氏の書面だった。呂布の暴虐に対する城中の民の恨みが綿々と書いてある。こんな人物に城主になられては、わたくし達は他国へ逃散するしかないとも認してある。
そして、密書の要点に入って、
(――今、濮陽城は留守の兵しかいません。呂布は黎陽へ行っているからです。即刻、閣下の軍をお進め下さい。わたくしどもは機を計って内応し、城中から攪乱します。義の一字を大きく書いた白旗を城壁のうえに立てますから、それを合図に、一挙に濮陽の兵を殲滅なさるように祷る――機はまさに今です)と、ある。
曹操は、破顔してよろこんだ。
「天、われに先頃の雪辱をなさしめ給う。濮陽はもう掌のうちの物だ!」
使いを犒って、承諾の返辞を持たせ帰した。
「危険ですな」
策士の劉曄がいった。
曹操も、その意見を可として、三段に軍を立てて、徐々と敵の城下まで肉薄して行った。
「オオ、見える」
曹操はほくそ笑んだ。
果たせるかな、大小の敵の旌旗が吹きなびいている城壁上の一角――西門の上あたりに一旒の白い大旗がひるがえっていた。手をかざして見るまでもなく、その旗には明らかに「義」の一字が大書してあった。
六
「もはや事の半ばは成就したも同じだ」
曹操は左右へいって、
「――だが、夜に入るまでは、息つきの小競り合いに止めておいて敵が誘うとも深入りはするな」
と、誡めた。
果たして、城兵は奇襲して来た。辻々で少数の兵が衝突して、一進一退をくり返しているうちに陽はやがて、とっぷり暮れて来た。
薄暮のどさくさまぎれにひとりの土民が曹操のいる本陣へ走りこんできた。捕えて詰問すると、
「田氏から使いです」と密書を示していう。
曹操は聞くとすぐ取寄せてひらいてみた。紛れもない田氏の筆蹟である。
初更の星、燦々の頃
城上に銅鑼鳴るあらん
機、逸し給うなかれ、即ち前進。
衆民、貴軍の蹄戛を待つや久し
鉄扉、直ちに内より開かれ
全城を挙げて閣下に献ぜん
「よしっ。機は熟した」
曹操は、密書の示す策によって、すぐ総攻撃の配置にかかった。
夏侯惇と曹仁の二隊は、城下の門に停めておいて、先鋒には夏侯淵、李典、楽進と押しすすめ、中軍に典韋らの四将をもって囲み、自身はその真ん中に大将旗を立てて指揮に当り、重厚な陣形を作って徐々と内城の大手へ迫った。
しかし李典は、城内の空気に、なにか変な静寂を感じたので、
「一応、われわれが、城門へぶつかって、小当りに探ってみますから、御大将には、暫時、進軍をお待ちください」と、忠言してみた。
曹操は気に入らない顔をして、
「兵機というものは機をはずしては、一瞬勝ち目を失うものだ。田氏の合図に手違いをさせたら、全線が狂ってしまう」
といって肯き入れないのみか、なお逸って自身、真っ先に馬を進めだした。
月はまだ昇らないが満天の星は宵ながら繚乱と燦めいていた。たッたッたッたッ――と曹操に馳けつづく軍馬の蹄が城門に近づいたかと思うと、西門あたりに当って、陰々と法螺貝の音が尾をひいて長く鳴った。
「やっ、なんだっ」
寄手の諸将はためらい合ったが、曹操はもう濠の吊橋を騎馬で馳け渡りながら、
「田氏の合図だっ。何をためらっているか。この機に突っこめっ――」と、振向いてどなった。
とたんに、正面の城門は、内側から八文字に開け放されていた。――さては、田氏の密書に嘘はなかったかと、諸将も勢いこんで、どっと門内へなだれ入った。
――が、とたんに、
「わあっ……」
と、闇の中で、喊声があがった。敵か味方か分らなかったし、もう怒濤のように突貫の行き足がついているので、にわかに、駒を止めて見返してもいられなかった。
「や、や、やっ?」
疑う間に投げ松明だ。軍馬の上に、大地に、盔に、袖に、火の雨がそそがれ出したのである。曹操は仰天して、突然、
「いかんっ。――敵の謀計にひッかかった。退却しろ」
と、声をかぎりに後ろへ叫んだ。
七
敵の計に陥ちたとさとって、曹操が、しまったと馬首をめぐらした刹那、一発の雷砲が、どこかでどん――と鳴った。
彼につづいて突入してきた全軍は、たちまち混乱に墜ちた。奔馬と奔馬、兵と兵が、方向を失って渦巻くところへなお、
「どうしたっ?」
「早く出ろ」と、後続の隊は、後から後からと押して来た。
「退却だっ」
「退くのだっ」
混乱は容易に救われそうもない。
「寄手の奴らを一人も生かして帰すな」と、東西から挟撃した。
度を失った曹操の兵は、網の中の魚みたいに意気地もなく殲滅された。討たれる者、生捕られる者数知れなかった。
さすがの曹操も狼狽して、
「不覚不覚」
と憤然、唇を噛みながら、一時北門から逃げ退こうとしたが、そこにも敵軍が充満していた。南門へ出ようとすれば南門は火の海だった。西門へ奔ろうとすれば、西門の両側から伏兵が現れてわれがちに喚きかかってくる。
「ご主君ご主君。血路はここに開きました。早く早く」
「おういっ。……わが君っ」
悪来が捜していると、
「典韋じゃないか」と、誰か一騎、馳け寄って来た味方がある。
「オオ、李典か、ご主君の姿を見なかったか」
「自分も、それを案じて、お捜し申しているところだ」
「どう落ちて行かれたやら」
兵を手分けして、二人は八方捜索にかかったが、皆目知れなかった。
何処を見ても火と黒煙と敵兵だった。曹操自身さえ南へ馳けているのか西へ向っているのか分らない。ただ果てしない乱軍の囲みと炎の迷路だった。その中からどうしても出ることができないほど、頭脳も顛倒していた。
――すると彼方の暗い辻から、一団の松明が、赤々と夜霧をにじませて曲って来た。
近づいて見るまでもなく敵にちがいない。曹操は、
「南無三」と、思ったが、あわてて引っ返してはかえって怪しまれる。肚をすえて、そのまま行き過ぎようとした。
ぎょっとしたが、すでに遅し! である。曹操は顔をそ向け、その顔を手で隠しながら、何気ない素振りを装ってすれ違った。
「はっ」
曹操は、作り声で、
「それがしも彼を追跡しているところです。何でも、毛の黄色い駿足にまたがって、彼方へ走って行ったそうで」と、指さすや否、その方角へ向って、一散に逃げ去った。
八
「ああ、危うかった」
曹操は、夢中で逃げ走ってきてから、ほっと駒を止めて呟いた。真に虎口を脱したとは、このことだろうと思った。
――が、一体ここは何処か。西か東か。その先の見当は依然として五里霧中のここちだった。
「やあ、ここも出られぬ!」
曹操は、思わず嘆声をあげた。駒も大地を蹄でたたくばかりで前へ出なくなった。
それも道理。街道口の城門は、今、さかんに焼けていた。長い城壁は一連の炎の樋となって、火熱は天地も焦がすばかりである。
「どうッ。どうッ。どうッ……」
熱風を恐れて駒は狂いに狂う。鞍つぼにも、盔へも、パラパラと火の粉は降りかかる。
曹操は、絶望的な声で、
「悪来。戻るより外はあるまい」と、後ろを見て云った。
悪来は、火よりも赤い顔に、眦を裂いて睨んでいたが、
「引っ返す道はありません。ここの門が幽明の境です。てまえが先に馳け抜けて通りますから、すぐ後からお続きなさい」
楼門は一面焔につつまれている。城壁の上には、沢山な薪や柴に火が移っている。まさに地獄の門だ。その下を馳け抜けるなどは、九死に一生を賭す芸当より危険にちがいない。
しかし、活路はここしかない。
一瞬に、呼吸がつまった。
眉も、耳の穴の毛までも、焼け縮れたかと思われた時は、曹操の胸がもう一歩で、楼門の向う側へ馳け抜けるところだった。
――が、その刹那。
楼上の一角が、焼け落ちて来たのである。何たる惨! 火に包まれた巨大な梁が、そこから電光の如く落下してきた。そしてちょうど曹操の乗った馬の尻をうったので、馬は脚をくじいて地にたおれ、ほうり出された曹操の体のほうへ、その梁はまたぐわらっと転がって来た。
「――あっ」
曹操は、仰向けにたおれながら、手をもってその火の梁を受けた。――当然、掌も肱も、大火傷をした。自分の体じゅうから、焦げくさい煙が立ちのぼった。
「……ウウム!」
彼は手脚を突っ張ってそり返ったまま焔の下に、気を失ってしまった。
しきりと自分を呼ぶ者がある。――どれくらい時が経っていたか、とにかくかすかに意識づいた時は、彼は、何者かの馬上に引っ抱えられていた。
「そうです。もうご安心なさい。ようやく敵地も遠くなりましたから」
「わしは、助かったのか」
「満天の星が見えましょう」
「見える……」
「お生命はたしかです。お怪我も火傷の程度だから、癒るにきまっています」
「ああ……。星空がどんどん後ろへ流れてゆく」
「後から馳け続いて来るのは、味方の夏侯淵ですから、ご心配には及びませんぞ」
「……そうか」
うなずくと曹操はにわかに苦しみ始めた。安心すると同時に半身の大火傷の痛みも分ってきたのである。
九
夜は白々と明けた。
将も兵もちりぢりばらばらに味方の砦へ帰って来た。どの顔も、どの姿も、惨憺たる敗北の血と泥にまみれている。
しかも、生きて還ったのは、全軍の半分にも足らなかったのである。
「何。将軍が戦傷なされたと?」
「ご重傷か」
「どんなご容体か」
聞き伝えた幕僚の将校たちは、曹操の抱えこまれた陣幕の内へ、どやどやと群れ寄ってきた。
「しッ……」
「静かに」
と、中の者に制されて、なにかぎょっとしたものを胸に受けながら、将校たちは急に厳粛な無言を守り合っていた。
手当てに来ていた典医がそっと戻って行った。典医の顔も憂色に満ちている。それを見ただけで、幕僚たちは胸が迫ってきた。
――すると、突然幕のうちで、
「わははは、あははは」
曹操の笑う声がした。
しかも、平常よりも快活な声だ。
驚いて一同、彼の横臥している周りを取巻いて、その容体をのぞきこんだ。
右の肱から肩、太股まで、半身は大火傷にただれているらしい。繃帯ですっかり巻かれていた。顔半分も、薬を塗って、白い覆面をしたように片目だけ出していた。玉蜀黍の毛のように、髪の毛まで焦げている。
「もう、いい。心配するな」
片目で幕僚を見まわしながら、曹操は強いて笑いを見せて、
「考えてみると、何も、敵が強いのでもなんでもない。おれは火に負けたまでだ。火にはかなわんよ。――なあ、諸君」と、いってまた、「それと、少し軽率だった。たとえ、過ちにせよ、匹夫呂布ごとき者の計におちたのは、われながら面目ない。しかしおれもまた彼に向って計をもって酬いてくれる所存だ。まあ見ておれ」
すこし身をねじろうとしたが、体が動かない。無理に首だけ動かして、
「夏侯淵」
「はっ」
「貴様に、予の葬儀を命ずる。葬儀指揮官の任につけ」
「不吉なお言葉を」
「はっ……」
「馬陵山の東西に兵を伏せ、敵をひき寄せ、円陣のうちにとらえて、思う存分、殲滅してくれるのだ。わかったか」
「わかりました」
「どうだ、諸君」
「ご名策です」
幕僚は、その場で皆、喪章をつけた。――そして将軍旗の竿頭にも、弔章が附せられた。
――曹操死す。
の声が伝わった。まことしやかに濮陽にまで聞えて来た。呂布は耳にすると、
「しめた、おれの強敵は、これで除かれた」
と膝を叩き、念のため、探りを放って確かめると、喪の敵陣は、枯野のように、寂として声もないという。
起伏する丘陵一帯の陰から、たちまち鳴り起った陣鼓鑼声は、完全に呂布軍をたたきのめした。