赤兎馬

 
 その日の戦いは、董卓の大敗に帰してしまった。
 呂布の勇猛には、それに当る者もなかった。丁原も、十方に馬を躍らせて、董卓軍を蹴ちらし、大将董卓のすがたを乱軍の中に見かけると、
「簒逆の賊、これにありしか」と、馳け迫って、
「漢の天下、内官の弊悪にみだれ、万民みな塗炭の苦しみをうく。しかるに、汝は涼州の一刺史、国家に一寸の功もなく、ただ乱隙をうかがって、野望を遂げんとし、みだりに帝位の廃立を議するなど、身のほど知らずな逆賊というべきである。いでその素頭を刎ねて、巷に梟け、洛陽の民の祭に供せん」
 と討ってかかった。
 董卓は、一言もなく、敵の優勢に怖れ、自身の恥ずる心にひるんで、あわてて味方の楯の内へ逃げこんでしまった。
 そんなわけで董卓の軍は、その日、士気のあがらないことおびただしく、董卓も腐りきった態で、遠く陣を退いてしまった。
 夜――
 本陣の燈下に、彼は諸将を呼んで嘆息した。
「敵の丁原はともかく、養子の呂布がいるうちは勝ち目がない。呂布さえおれの配下にすれば、天下はわが掌のものだが――」
 すると、諸将のうちから、
「将軍。嘆ずるには及びません」と、いった者がある。
 人々がかえりみると、虎賁中郎将の李粛であった。
李粛か。なんの策がある?」
「あります。私に、将軍の愛馬赤兎と一嚢の金銀玉をお託しください」
「それをどうするのか」
「幸いにも、私は、呂布と同郷の生れです。彼は勇猛ですが賢才ではありません。以上の二品に、私の持っている三寸不爛の舌をもって、呂布を訪れ、将軍のお望みを、きっとかなえてみせましょう」
「ふム。成功するかな?」
「まず、おまかせ下さい」
 でもまだ迷っている顔つきで、董卓は、側にいる李儒の意見をきいた。
「どうしよう。李粛はあのように申すが」
 すると李儒は、
「天下を得るために、なんで一匹の馬をお惜しみになるんです」と、いった。
「なるほど」
 董卓は大きくうなずいて、李粛の献策を容れることにし、秘蔵の名馬赤兎と、一嚢の金銀玉とを彼に託した。
 赤兎は稀代の名馬で、一日よく千里を走るといわれ、馬体は真っ赤で、風をついて奔馳する時は、その鬣が炎の流るるように見え、将軍の赤兎といえば、知らない者はないくらいだった。
 李粛は、二人の従者にその名馬をひかせ、金銀玉をたずさえて、その翌晩、ひそかに呂布の陣営を訪問した。
 呂布は彼を見ると、
「やあ、貴公か」と、手を打ってよろこび、「君と予とは、同郷の友だがその後お互いに消息も聞かない。いったい今はどうしているのか」と、帳中へ迎え入れた。
 李粛も、久濶を叙して、
「自分は漢朝に仕えて、今では虎賁中郎将の職を奉じている。君も、社稷を扶けて大いに国事に尽していると聞いて、実は今夜、祝いに来たわけだ」と、いった。
 
 
 その時、呂布はふと耳をそばだてて、李粛へ訊いた。
「今、陣外にいなないたのは、君の乗馬か、啼き声だけでもわかるが、素晴らしい名馬を持っているじゃないか」
「いや、外につないであるのは、自分の乗用ではない。足下に進上するために、わざわざ従者に曳かせて来たのだ。気に入るかどうか、見てくれ給え」と、外へ誘った。
 呂布は、赤兎馬を一見すると、
「これは稀代の逸駿だ」と驚嘆して、
「こんな贈り物を受けても、おれはなにも酬いるものがないが」
 と、陣中ながら酒宴をもうけて歓待に努める容子は、心の底からよろこんでいるふうだった。
 酒、たけなわの頃を計って、
「だが呂布君。折角、君に贈った馬だが、赤兎馬のことは、足下の父がよく知っておるから、必ず君の手からとり上げてしまうだろう。それが残念だな」
 李粛がいうと、
「は……何をいうのか、君はだいぶ酔ってきたな」
「どうして」
「吾輩の父は、もう世を去ってこの世に亡い人じゃないか。なんでおれの馬を奪おう」
「いやいや。わしのいうのは足下の実父ではない。養父の丁原のことだ」
「あ。養父のことか」
「思えば、足下ほどな武勇才略を備えながら、墻の内の羊みたいに飼われているのは、実に惜しいものだ」
「けれど、父亡き後、久しく丁原の邸に養われてきた身だから、今さら、どうにもならん」
「ならん? ……そうかなあ」
「おれだって、若いし、大いに雄才を伸ばしてみたい気もするが」
「そこだ、呂布君。良禽は木を選んで棲むという。日月は遷りやすし。空しく青春の時を過すのは愚かではないか」
「む、む。……では李君。貴公のみるところでは、今の朝臣の中で、英雄とゆるしてよい人は、一体誰だと思うか」
 李粛は一言のもとに、
「それやあ、董卓将軍さ」といった。
「賢を敬い、士に篤く、寛仁徳望を兼備している英傑といえば董卓をおいては、ほかに人物はない。必ずや将来大業をなす人はまずあの将軍だろうな」
「そうかなあ。……やはり」
「足下はどう思う」
「いや、実はこの呂布も、日頃そう考えているが、何しろ丁原と仲が悪いし、それに縁もないので――」
 聞きもあえず李粛は、たずさえてきた金銀玉をそれに取りだして、
「これこそ、その董卓公から、貴公へ礼物として送られた物だ。実は、予はその使いとして来たわけだ」
「えっ。これを」
赤兎馬もご自身の愛馬で、一城とも取換えられぬ――といっておられるほど秘蔵していた馬だが、ご辺の武勇を慕って、どうか上げてくれというお言葉じゃ」
「ああ。それまでにこの呂布を愛し給うか。何をもって、おれは知己の篤い志に酬いたらいいのか」
「いや、それはやすいことだ。耳を貸し給え」と、李粛はすり寄った。
 陣帳風暗く、夜は更けかけていた。兵はみな睡りに落ち、時おり、馴れぬ厩につながれた赤兎馬が、静寂を破って、蹄の音をさせているだけだった。
 
 
「……よしっ」
 呂布は大きくうなずいた。
 何事かを、その耳へささやいた李粛は、彼の怪しくかがやく眼を見つめながら、そばを離れて、
「善は急げという。ご決心がついたら直ぐやり給え。予は、ここで酒を酌んで、吉左右を待っていよう」と、煽動した。
 呂布は、直ちに出て行った。
 そして営の中軍へ入って、丁原の幕中をうかがった。
 丁原は、燈火をかかげて、書物を見ていたが、何者か入ってきた様子に、
「誰だっ」と、振向いた。
 血相の変った呂布が剣を抜いて突っ立っているので、愕然と立ち、
呂布ではないか。何事だ、その血相は」
「何事でもない。大丈夫たるものなんで汝がごとき凡爺の子となって朽ちん」
「ばッ、ばかっ。もう一度いってみい」
「何を」
 呂布は、躍りかかるや否や、一刀のもとに、丁原を斬り伏せ、その首を落した。
 黒血は燈火を消し、夜は惨として暗澹であった。
 呂布は、狂える如く、中軍に立って、
丁原を斬った。丁原は不仁なるゆえに、これを斬った。志ある者はわれにつけ。不服な者は、我を去れっ」と、大呼して馳けた。
 中軍は騒ぎ立った。去る者、従う者、混乱を極めたが、半ばは、ぜひなく呂布についてとどまった。
 この騒ぎが揚ると、
「大事成れり」と、李粛は手を打っていた。
 やがて直ちに、呂布を伴い、董卓の陣へ帰ってきて、事の次第を報告すると、
「でかしたり李粛」と、董卓のよろこびもまた、非常なものであった。
 翌日、特に、呂布のために盛宴をひらいて、董卓自身が出迎えるというほどの歓待ぶりであった。
 呂布は、贈られたところの赤兎馬にまたがって来たが、鞍をおりて、
「士はおのれを知る者の為に死すといいます。今、暗きを捨てて明らかなるに仕う日に会い、こんなうれしいことはありません」と、拝跪していった。
 董卓もまた、
「今、大業の途に、足下のごとき俊猛をわが軍に迎えて、旱苗に雨を見るような気がする」
 と、手をとって、酒宴の席へ迎え入れた。
 呂布は、有頂天になった。
 しかもまた、黄金の甲と錦袍とをその日の引出物として貰った。恐るべき毒にまわされて、呂布は有頂天に酔った。好漢、惜しむらくは眼前の慾望にくらんで、遂に、青雲の大志を踏み誤ってしまった。
       ×     ×     ×
 呂布は、檻に入った。
 董卓はもう怖ろしい者あるを知らない。その威勢は、旭日のように旺だった。
 自分は、前将軍を領し、弟の董旻を、左将軍に任じ、呂布を騎都尉中郎将の都亭侯に封じた。
 思うことができないことはない。
 ――が、まだ一つ、残っている問題がある。帝位の廃立である。李儒はまた、側にあって、しきりにその実現を彼にすすめた。
「よろしい。今度は断行しよう」
 董卓は、省中に大饗宴を催して再び百官を一堂に招いた。
 
 
 洛陽の都会人は、宴楽が好きである。わけて朝廷の百官は皆、舞楽をたしなみ、酒を愛し、長夜にわたるも辞さない酔客が多かった。
(――今日は、この間の饗宴の時よりも、だいぶ和やかに浮いているな)
 董卓は、大会場の空気を見まわして、そう察していた。
 時分は好し――と、
「諸卿!」
 彼は、卓から起って、一場の挨拶を試みた。
 初めの演舌は、至極、主人側としてのお座なりなものであったから、人々はみな一斉に酒盞をあげて、
「謝す。謝す」と、声を和し、拍手の音も、しばし鳴りもやまなかった。
 董卓は、その沸騰ぶりを、自分への人気と見て、
「さて。――いつぞやは遂に諸公のご明判を仰いで議決するまでに至らなかったが、きょうはこの盛会と吉日を卜して、過日、未解決におわった大問題をぜひ一決して、さらに盞を重ねたいと思うのであるが、諸公のお考えは如何であるか」
 と、現皇帝の廃位と陳留王の即位推戴のことを、突然、いいだした。
 熱湯が冷めたように、饗宴の席は、一時にしんとしてしまった。
「…………」
「…………」
 誰も彼も、この重大問題となると唖のように黙ってしまった。
 すると、一つの席から、
「否! 否!」と叫んだ者がある。
 中軍の校尉袁紹であった。
 袁紹は、敢然、反対の口火を切っていった。
「借問する! 董将軍。――あなたは何がために、好んで平地に波瀾を招くか。一度ならず二度までも、現皇帝を廃して、陳留王をして御位にかわらしめんなどと、陰謀めいたことを提議されるのか」
 董卓は、剣に手をかけて、
「だまれっ。陰謀とは何か」
「廃帝の議をひそかに計るのが陰謀でなくてなんだ」
 袁紹も負けずに呶鳴った。
 董卓はまッ青になって、
「いつ密議したか。朝廷の百官を前において自分は信ずるところをいっておるのだ」
「この宴は私席である。朝議を議するならば、なぜ帝の玉座の前で、なお多くの重臣や、太后のご出座をも仰いでせんか」
「えいっ、やかましいっ。私席で嫌なら、汝よりまず去れ」
「去らん。おれは、陰謀の宴に頑張って、誰が賛成するか、監視してやる」
「いったな、貴様はこの董卓の剣は切れないと思っておるのか」
「暴言だっ。――諸君っ、今の声を、なんと聞くか」
「天下の権は、予の自由だ。予の説に不満な輩は、袁紹と共に、席を出て行けっ」
「ああ。妖雷声をなす、天日も真っ晦だ」
「世まい言を申しておると、一刀両断だぞ。去れっ、去れっ、異端者め」
「誰がおるか、こんな所に」
 袁紹は、身をふるわせながら、席を蹴って飛び出した。
 その夜のうち、彼は、官へ辞表を出して、遠く冀州の地へ奔ってしまった。
 
 
 席を蹴って、袁紹が出て行ってしまうと、董卓は、やにわに、客席の一方を強くさして、
「太傅袁隗! 袁隗をこれへ引っ張ってこい」
 と、左右の武士に命じた。
 袁隗はまッ青な顔をして、董卓の前へ引きずられて来た。彼は、袁紹の伯父にあたる者だった。
「こら、汝の甥が、予を恥かしめた上、無礼を極めて出て行った態は、その眼でしかと見ていたであろうが。――ここで汝の首を斬ることを予は知っているが、その前に、ひと言訊いてつかわす。この世と冥途の辻に立ったと心得て、肚をすえて返答をせい」
「はっ……はいっ」
「汝は、この董卓が宣言した帝位廃立をどう思う? 賛同するか、それとも、甥の奴と同じ考えか」
「尊命の如し――であります」
「尊命の如しとは!」
「あなたのご宣言が正しいと存じます」
「よしっ。しからばその首をつなぎ止めてやろう。ほかの者はどうだ。我すでに大事を宣せり。背く者は、軍法をもって問わん」
 剣をあげて、雷の如くいった。
 並いる百官も、慴伏して、もう誰ひとり反対をさけぶ者もなかった。
 董卓は、かくて、威圧的に百官に宣誓させて、また、
「侍中周毖! 校尉伍瓊! 議郎何顒! ――」
 と、いちいち役名と名を呼びあげて、その起立を見ながら厳命を発した。
「我に背いた袁紹は、必ずや夜のうちに、本国冀州へさして逃げて帰る心にちがいない。彼にも兵力があるから油断はするな。すぐ精兵を率いて追い討ちに打って取れ」
「はっ」
 三将のうち、二人は命を奉じて、すぐ去りかけたが、侍中周毖のみは、
「あいや、おそれながら、仰せはご短慮かと存じます。上策とは思われません」
周毖っ。汝も背く者か」
「いえ、袁紹の首一つをとるために、大乱の生じるのを怖れるからです。彼は平常、恩徳を布き、門下には吏人も多く、国には財があります。袁紹叛旗を立てたりと聞えれば、山東の国々ことごとく騒いで、それらが、一時にものをいいますぞ」
「ぜひもない。予に背く者は討つあるのみだ」
「ですが、元来、袁紹という人物は、思慮はあるようでも、決断のない男です。それに天下の大勢を知らず、ただ憤怒に駆られてこの席を出たものの、あれは一種の恐怖です。なんであなたの覇業を妨げるほどな害をなし得ましょうや。むしろ喰らわすに利をもってし、彼を一郡の太守に封じ、そっとしておくに限ります」
「そうかなあ?」
 座右をかえりみて呟くと、蔡邕も大きに道理であると、それに賛意を表した。
「では、袁紹を追い討ちにするのは、見あわせとしよう」
「それがいいです、上策と申すものです」
 口々からでる讃礼の声を聞くと、董卓はにわかに気が変って、
「使いを立てて、袁紹渤海郡の太守に任命すると伝えろ」
 と、厳命を変更した。
 その後。
 九月朔日のことである。
 董卓は、帝を嘉徳殿に請じて、その日、文武の百官に、
 ――今日出仕せぬ者は、斬首に処せん。
 という布告を発した。そして殿上に抜剣して、玉座をもしり目に、
李儒、宣文を読め」
 と股肱の彼にいいつけた。
 
 
 予定の計画である。李儒は、はっと答えるなり、用意の宣言文をひらいて、
「策文っ――」
 と高らかに読み始めた。
 
孝霊皇帝
眉寿ノ祚ヲ究メズ
早ク臣子ヲ棄給ウ
皇帝承ケツイデ
海内側望ス
而シテ天資軽佻
威儀ツツシマズシテ慢惰
凶徳スデニアラワレ
神器ヲ損イ辱シメ宗廟ケガル
太后マタエニ母儀ナク
政治統テ荒乱
衆論ココニ起ル大革ノ道
 
 李儒は、さらに声を大にして読みつづけていた。
 百官の面は色を失い、玉座の帝はおおのき慄え、嘉徳殿上寂として墓場のようになってしまった。
 すると突然、
「ああ、ああ……」
 と、嗚咽して泣く声が流れた。帝の側にいた何太后であった。
 太后は涙にむせぶの余り、ついに椅子から坐りくずれ、帝のすそにすがりついて、
「誰がなんといっても、あなたは漢の皇帝です。うごいてはいけませんよ。玉座から降ってはなりませんよ」
 と、いった。
 董卓は、剣を片手に、
「今、李儒が読み上げた通り、帝は闇愚にして威儀なく、太后は教えにくらく母儀の賢がない。――依って今日より、現帝を弘農王とし、何太后は永安宮に押しこめ、代るに陳留王をもって、われらの皇帝として奉戴する」
 いいながら、帝を玉座から引き降ろして、その璽綬を解き、北面して臣下の列の中へ無理に立たせた。
 そして、泣き狂う何太后をも、即座にその后衣を剥いで、平衣とさせ、後列へしりぞけたので、群臣も思わず眼をおおうた。
 時に。
 ただ一人、大音をあげて、
「待てっ逆臣っ。汝董卓、そも誰から大権をうけて、天を欺き、聖明の天子を、強いてひそかに廃せんとするか。――如かず! 汝と共に刺しちがえて死のう」
 いうや否、群臣のうちから騒ぎだして、董卓を目がけて短剣を突きかけてきた者があった。
 尚書丁管という若い純真な宮内官であった。
 董卓は、おどろいて身をかわしながら、醜い声をあげて救けを呼んだ。
 刹那――
「うぬっ、何するかっ」
 横から跳びついた李儒が、抜打ちに丁管の首を斬った。同時に、武士らの刃もいちどに丁管の五体に集まり、殿上はこの若い一義人の鮮血で彩られた。
 さはあれ、ここに。
 董卓は遂にその目的を達し、陳留王を立てて天子の位につけ奉り、百官もまた彼の暴威に怖れて、万歳を唱和した。
 そして、新しき皇帝を献帝と申上げることになった。
 だが、献帝はまだ年少である。何事も董卓の意のままだった。
 即位の式がすむと、董卓は自分を相国に封じ、楊彪を司徒とし、黄琬を太尉に、荀爽を司空に、韓馥冀州の牧に、張資を南陽の太守に――といったように、地方官の任命も輦下の朝臣の登用も、みな自分の腹心をもって当て、自分は相国として、宮中にも沓をはき、剣を佩いて、その肥大した体躯をそらしてわが物顔に殿上に横行していた。
 同時に。
 年号も初平元年と改められた。
桃園の巻 第21章
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